色鳥 リレー小説の試み

第三十回 〜第二章〜 添田ひろみ

 中庭の木が大きく揺れている。朝はよく繁っていた梢が、今は闇の一部になって静寂を蹴散らしている。
 亜矢はノートに農作業をしたことを書き終えたところだった。横にうろ覚えの地図を加える。獣道と畑、川と公道、そこからここまでの道を線で繋ぐとスプーンのような形になった。このスプーンに掬われるものは何なのだろうと考えているうちに、プリンが浮かんだ。卵液を漉して作ったプリンは口当たりが滑らかで、母親の自慢の一品だった。亜矢はシャープペンを握り直し、ミユが母親にひどく怒られたことをスプーンの柄の下に書き足した。金髪が安っぽいマネキンみたいだったと思う。あんな小さな子をぶったりして、あの人は嫌い。でも、ブラックジャックさんとおババさんは好き。優しくはなかったがいじわるではなかった。昼食の後、早く部屋に戻るように教えてくれた。だから、私は部屋に戻って体を拭いたんだわ。それから身支度を整えて、玄関前の部屋に行って、その後、あの部屋で、私は……、えっ、私は何をしたんだっけ。
 記憶がすっぽりと抜け落ちていた。それよりも奇妙なのは、思い出せないことにさほど焦りも不安も感じていない心の方だった。頭の芯がぼうっと熱を帯びていた。抗生物質を飲んで寝ているときに似ていた。もしかしたら、あのとき何か飲んだのだろうか。考えようとするが、同じ極の磁石を近づけられたように、思考のベクトルが逸れてしまう。何度考え直しても振り出しに戻され、亜矢はだんだん面倒になってきた。
 どうでもいいじゃないの。
 また梢が音を立てる。ぎゃっと遠くで悲鳴のようなものが聞こえ、亜矢ははっと窓を見た。体に力が入った。怖い。凪いでいた心がようやくさざめきはじめた。その感じを亜矢は胸に手をあてて味わってみる。
 よかった。記憶はなくても、心はまだ侵されていない。
 でも、と思う。こんなことでほっとするなんて、ヘンだ。ほっとするというのは、安全なところに逃れられたときに思うものなのに。
 亜矢はとまどいながら、デメルの箱を開けた。いつからか、お守りのようになっている二枚のパンティに触れる。柔らかい木綿の感触が指を包み込む。こうしていると、紺パンも白パンも無垢に見える。畳んでしまってしまえば、誰も痴漢をされた女の子の下着だとは思わないだろう。
 だけど、どんなに上手にごまかしても、事実は消えない。
 そう思い至ったとき、亜矢は気がついた。今の私は、怖がることで自分を保っているのだ。ごまかされないように。でもそれって、リストカットする子に似ていないだろうか。傷つかなければ、生きていることを確認できない……。
 亜矢はぶるっと一度身震いをし、もう一度、叫び声の正体をつきとめるように耳を澄ました。
 怖さから目を反らしてはダメ。真実を見るの。ちゃんと目を見開いて。
 占いばあさんにいわれたことを反芻する。
 カツン。
 何か固い物が窓ガラスに当たった。カツン、カツン、カツン。続けざまにガラスが鳴り、亜矢は窓を開け放った。風が一気に髪を吹き上げ、亜矢は急いでノートを閉じた。
 何かが起きる。
 ノートをデメルの箱といっしょに壁の羽目板の中に隠し、机のスタンドの光量を落とす。
 何かが、始まる。
 闇に目を凝らすと、木立のある辺りで、ぽっと光が浮かび、すぐに消えた。
 人魂……、まさか、ね。
 今度は窓下で光が動いた。
(誰?)
 身を乗り出すと、カチっと音がした。ライターだとわかった。火は、今度はゆっくりと円を描くように揺れた。
 おいでってこと?
 火が消える。亜矢はしばらく様子を窺っていたが、思い切って部屋を出た。

 土の匂いのする夜気が、服の隙間から滑り込んでくる。たちまち、指先が冷たくなり、木綿の感触が消え失せる。亜矢の中で夜の九時くらいだと思っていた体内時計が、真夜中に変わった。見回せば、明かりの点いている窓は一つもなく、朝、洗顔をした井戸端だけが、外灯に照らし出されている。まるで、舞台装置のようだと思う。外灯の下で、キスをするカップル。昔、そんなミュージカルを見たような気がする。
 風が途切れると、自分の足音がやけに耳についた。砂利が鳴るたびに怖れが膨らんでいく。どうにも我慢できなくなって立ち竦むと、
「しっ。声を出すな」
 いきなり後ろから口を塞がれた。嫌。身を捩ってなんとか振り向いた。相手の鼻脇でピアスが銀色に光る。
「あっ」
 しいっ。ボウイは亜矢の手を引き、建物の裏へ身を潜めた。
 タバコの匂いに混じって、うっすら獣の気配がする。亜矢はふいに息苦しくなり、固い胸板を思い切り突き飛ばした。心が震え始める。これも怖れなのだろうか。
 ボウイは胸をさすりながら、「なんだよ」と口を尖らせた。
「せっかく、教えにきてやったのに」
「何をですか」つい切り口上になった。
「あの子のことだよ。心配だったんだろう」
 誰のことだかわからずぼんやりしていると、「あんたの、あの気の強い友だちだよ」ボウイは耳朶を摘んでみせた。
「マナ」
 声が裏返った。ワゴンから打ち捨てられた姿が蘇った。あそこは確か高速道路だったはずだ。高速であったのだろうか。いや、そんなこと、不可能だわ。じゃあ、どこで会ったの。高速の下? でもどうやって下に降りたのだろう。誰かの車に拾ってもらったのだろうか。それとも誰かが迎えにきたのだろうか。きっとそうだ。マナはケイタイを持ってたもの。それよりケガは。あんなふうに車から降ろされて、何ともなかったのだろうか。
「それで、マナは、元気だったんですか? ケガとかしてなかったですか?話は、話はしたんですか? どこで会ったんですか?」
「あー、うぜー。一個ずつ聞けねーのかよ」
 ボウイはいらいらと腕を組んだ。ぶつぶつ口の中で呟いている。女はなんとかだ、とか、ピーチクパーチクとか、ヒヨコかよ、とか、愚痴っている。
「わかりました。マナは元気なんですか。これでいいですか」
 亜矢もいらいらと聞き返すと、「ああ」ボウイは頷きながら、すっと亜矢の傍らに体を近づけてきた。
「ちゃんと立って歩いてたぜ」
 いつの間にか体が亜矢に密着していた。ヒヨコちゃん。硬い腕が亜矢を捕らえる。
「柔らけー」
 腕を解こうともがいている亜矢に、「あと五秒」という囁きが届いた。ボウイは目を閉じていて、なぜか怯えるように震えていて、亜矢はふっと力が抜けそうになった。が、すぐに気を取り直し、「いや」と声を絞り出した。
 ごめん、と聞こえた。囲いが外れ、風がまともに亜矢の体にぶつかってくる。寒いと呟くと、「ほらみろ」とボウイは笑った。
「少しは優しくしろよ」
「なんで、優しくしなくちゃいけないんですか」
 カレシでもないのに、のひと言が舌に縺れた。
「へえ、いるんだ」
「いますよ、もちろん」
 嘘だった。へえ。ボウイは地面を蹴った。
「俺だって、いるよ」
「じゃあ、その人にしてもらえばいいじゃないですか」
「してもらうよ」
 心なしか声のトーンが下がり、亜矢は少しだけ可哀想になった。
「やぶれてますけど」
 袖のかぎ裂きが気になった。
「関係ねーよ」
 それから、ボウイは急にしゃがみ込んだ。
「けっ、血が出てきやがった」
「えっ、どこ」
 亜矢にはよく見えなかった。鉄の匂いが鼻についた。ボウイはスニーカーから靴ひもを外し、膝の上で縛った。止血するくらいひどいのだろうか。目が合うと、ボウイはふっと視線を柔らげた。
「大丈夫だよ」
 とたんに亜矢は赤面してしまい、慌てて目を反らした。
「おばさんにいって救急箱もらってきます」
 ひどく息苦しかった。
「膿んだら大変だし」
「ダメだ」
 ボウイが鋭い目で亜矢を睨んだ。
「誰も呼ぶな。俺のミスなんだから」
「ミスって?」
「あんたのお友達に怖い目で睨まれちゃってさ、お陰で危ない橋を渡る羽目になっちまったのさ」
「危ない橋?」
 ボウイが溜息をつく。よほど大変な橋だったんだなあと想像していると、
「あんたってさ、本当に質問が多いな」
 ボウイはまた腕を組んだ。数学の先生とイメージが重なった。クラスメートは根暗だとか不気味だとか陰口を叩いていたが、亜矢は嫌いではなかった。テストの点が悪くても冷たい目をしない数少ない先生だった。
(すべては疑問から始まるんです。聞くことを恥じてはいけませんよ)
「だって、わからないことばかりだから」
「聞けば、何でもすぐに教えてくれるってか? おめでたいな」
 ボウイは何かいいかけたが、まあいっか、と袖の破れをめくった。
「とにかく、大丈夫だから。あの子は元気だったし、俺もちゃんと自分のミスの片づけた。ちょっとばかり服は破れたけど、証拠はお釈迦、崖の下。っつーことで、一件落着」
 亜矢にはさっぱり要領を得ない説明だった。口を開きかけると、
「もうダメ。質問禁止。もう行かなきゃなんない」
 ボウイは亜矢のくちびるを指で押さえた。
「どこへ?」
 ほら、また。ボウイは笑い、ふっと真顔になった。鳶色の目が亜矢の目を真っ直ぐに見る。
「当分戻れないかもな」
「え?」
「え? って、そのえは何だろう。うれしいのかなあ、さみしいのかなあ」
 ボウイは亜矢を見つめたまま、後ずさりをしはじめた。なんだかカッコつけているようで、「へんな人」亜矢が笑うと、「やっぱ、あんた、ここに合わないよ」ボウイがしみじみといった。
「帰った方がいいよ。あんたには、探してくれる人がいるじゃん」
 薄暗闇の中で、ボウイは眩しいわけもないのに額に手を翳した。井戸端の外灯が、誰かを呼んでいるように柔らかい光の和を広げている。ボウイは今にもそこに飛び込みそうな、身軽なステップでくるりとターンをすると、
「送ってやるから」
 顎をしゃくった。

 部屋に戻っても、亜矢は寝付けなかった。しばらくすると、エンジンが二度唸り、タイヤがゆっくりと砂利を押し潰していった。車が遠ざかっていき、気配がかき消えてしまうと、涙が目尻からゆっくりと耳の脇に流れていった。なぜ泣いているのか、わからなかった。
 何度も寝返りを打った。そのうちに外が白んできて、高く低く犬の遠吠えが胸に響いた。堪らなくなって、亜矢は外へ飛び出した。表門まで走っていく。
 帰りたい、と呟いてみる。
 次に、行きたい、といってみる。
 霧に覆われた木立から、柔らかいものが現れ、亜矢の脹ら脛に体を寄せた。
「ビロイ」
 ボウイが呼んだように声をかけると、尻尾が大きく揺れた。
(ああ、ビロイ)
 亜矢は犬を抱きしめ、背中に顔を埋めた。ボウイと同じ匂いがした。

第二十九回 〜第二章〜 万リー

 あと一時間はある、と文也は時計を見た。時計のバンドから、髪の毛が一本垂れ下がっている。慌てていた昨夜のことが思い出されて、にんまりとなる。すぐに、はっとしてハンドルから片手を離し、髪の毛を掴もうとするのだが、ゆらゆらとして掴めない。少し蛇行したのか、クラクションを鳴らされ、文也は諦めてハンドルに手を戻した。操は物思いにふけったように、助手席のシートに身を深く埋めて目を閉じている。なにか話しかけづらい雰囲気で文也は落ち着かない。軽井沢駅に近づくと、どこまでが別荘族なのか、ただの観光客なのか見分けがつかない人々が、薄ものをひらひらさせ、裸足にビーチサンダルを突っかけて歩いている。文也の前を走る車のナンバーは尾道だった。
 さすがに軽井沢だ。なんだか、全国一の田舎だという気がしてきた、文也はそう思う。思ったことを口に出したかったが、操の唇が真一文字に引かれているのを見ると、首をすくめたくなるような威圧感があった。自分の口を塞ぐように、火を付けないままの煙草をくわえる。車が渋滞の列に巻き込まれた。止まっては少し動き、また止まる。繰り返していると、歩道を歩く少女たちが何度も追い越していき、しばらくすると文也の車が少女たちを追い越していくというのを繰り返す。少女たちはサマースクールなのか、揃いのツバの大きな帽子をかぶっていて、二十人ほどのグループで歩いていた。
 真奈美よりは大きいな。足腰がしっかりしている。あの妙に成長途中のバランスの悪さがなくて、ちんまりとまとまっている。文也はハンドルを両の手で抱えるようにして顎を乗せ、少女たちを眺める。
「なんだか幸せそう」
 操も同じ光景を見ていた。ひとりの少女の帽子が風に飛ばされて舗道を転がった。それを拾おうと走り出しす少女がいて列は乱れた。舗道の上に覆い被さるように茂った木の下で、帽子を飛ばされた少女は木漏れ日を浴びて、幾筋もの光の帯に貫かれて見えた。
「私たちの娘は、どうなっていくのかしら。もう戻れないわ」
 前の車が動き出した。文也はアクセルに足を乗せる。
「誰だって昨日には戻れないですよ。でも、明日が今日より悪いとは限らない」
 自分で言っておきながら、あれっと首を捻る。どこかで聞いた言葉だった。
「でも、明日が今日より良いと思えないわ。恐ろしいことが待ちかまえている気がする。すごく恐ろしいことが」
「行き着くところまで行けば、たいしたことじゃないと気がつくかも知れない。それに、真奈美もおたくのお嬢さんも、僕にはそんなに転落しているとは思えないなあ」
「転落・・・転がり落ちていくというならば、亜矢はまさしくそうかも知れない。でも、亜矢だけじゃなくて、私も。私の家族・・・全部・・・転がり落ちて行くみたい」
 車がスムーズに動き始める。文也は、昨夜のことを言われているような気がした。交わりの最中に、操の口からこぼれた言葉の断片がよみがえった。あれはどういう意味だったのか。文也はその顔におよそに合わない深い皺を額に寄せた。

「あの、三十分で戻って来てください。駅で真奈美を受け取る時間になるから」
 駅のそばにあるアウトレットの駐車場に車を入れながら、文也は操にそう告げた。車が停まると、操はくしゃくしゃになったジャケットの裾を引っ張るようにして身を整えて車から降りると、足早にアウトレットへ向かっていった。
 文也はケイタイを開く。
「俺だよ、うん? 今、軽井沢の駅の近く、そう、そう、うんうん、わかっているてば。叔父さんね、おまえの弟ってことでいいんだろ」
 久江のまくし立てるような話し声を聞きながら、同じ女でもつくづく違うと思った。
「聞いているの、文也」
 久江が怒鳴り、文也は肩をすくめた。
 操が戻ったのはきっちり三十分後だった。操は化粧をなおし、着替えていた。今まで着ていたものは、どうしたんだろう。車を走らせながら、文也はちらちらと操を見る。操はその視線に気づかない振りをしているように見える。いやに堅苦しい雰囲気だなあと、文也も居心地が悪い。しばらく黙って運転していたが、とうとう気詰まりになって口を開く。
「手土産を買って行けといわれたんだけど、なにがいいかな」
 文也は久江の指示を操に伝える。返事を待つがなにも言わない。
「あの、僕、昨日、ほら、変な占い師のおばあさんに有り金全部はたいちゃったの」
 もそもそと文也が言う。
 ハンドバッグを開けた操は、むき出しのままになっている札の中から、無造作に幾枚かを抜きとって、文也に向かって差し出した。文也は操がアウトレットの中で金も用意してきたことを知った。
「あ、どうも」
 文也は受け取りながら、なんだか恐縮する。
「真奈美さんを受け取ったら、あの娘をすぐに東京へ返してください」
 うんと頷きながら、はたして素直に真奈美が東京へ戻るだろうかと思う。
「足手まといになるし、第一危険ですもの。お母様もそう言っていらっしゃるのでしょう」
 調子が狂うなあと文也は操の言葉遣いに戸惑いながら、操の丁寧な物言いの中に強い意志が溢れていて、一歩も引かないという強さを感じた。
「あとどのくらいですの」
「もうすぐのはず」 
 携帯が鳴った。文也は舗道に寄せて車を止めた。
 何か言おうとしている操の口を掌で軽く押さえて、文也は携帯を耳に当てる。相づちが続き、ちょっと待ってと言うと、ダッシュボードを開けてノートを取り出し、うなずきながらなにか書き始めている。ありがとうという言葉で携帯を切った文也は、しばらくしてからぽつんと言う。
「あの、瞑想というのはかなり危ないことになってるらしい。それから、ご主人の方も失踪ということになっているらしい、警察の発表だと」
 操の口元は真一文字に引き結ばれていた。
「ご主人はどこかに隠れているはずなんだけれど、心当たりありますか」
 力の入った口元が突然ゆるんで、言葉にならない空気の玉が操の唇から飛び出してくる。車を車線に戻しながら文也は言う。
「僕は思うんだけれど。ご主人は会社の粉飾決算に巻き込まれていて、たぶん、はめられたのだと思う。それとも、そういうことをしそうな人なの?」
「しないと思うわ。しない、しない人だと思う。でも・・・あんまり自信がないわ。会社のことは言わないの。前は、よく話したんだけれど・・・」
「いつ頃から話さなくなったの」
「工場に転勤になってから・・・それまでは、デザインの仕事だったわ。しばらくしたら本社へ戻る約束だと言っていた。バードウォッチングが趣味で、たくさん鳥を描いた。それを私に見せて、これはどうだとよく聞いた。あの会社のシンボルマークも化粧品のパッケージも、それから関連会社のイメージデザインも、夫が手がけたの。私たちは休みになると連れ立って、きれいなものを探していろいろなところへ行ったわ。・・・亜矢が産まれて・・・なかなか出来なくなったけれど。・・・夫は出かけたがらなくなった・・・」
 操の口が突然に重たくなった。
「転勤っていつ頃のことですか」
 操の顔色がとても悪いことに気がついて、文也は少しスピードを落とす。
「気分悪い? でも、だいじなことだから」
 文也はかまわず口を開く。
「転勤になってからだな。今、ご主人は警察に追われている。でも、ご主人を捜しているのは警察だけとは限らない。会社も捜しているはずだ。こういう大きな事件の時に・・・誰かが犠牲になる。自殺だったり、事故だったり。それで、事件の真相がわからなくなる。ご主人はそういう立場にあるんじゃないのかな」
「えっ」
 操が助手席の上で跳ねたように文也には思えた。
「どこか、心当たりはありますか。自分で警察に出頭する気はなさそうだし。心当たりはぜんぜんないの?」
 操は首を振る。
「友だちとか、田舎とか」
 操は振り続けていた首を急に止めて、文也の二の腕を掴んだ。
「違うわ!! 瞑想・・・主人も瞑想に行くんだわ!」
 確信に満ちた操の言葉に、文也は訳がわからないまま納得せざるを得なかった。
「ご主人は瞑想の信者なんですね」
「信者・・・そうなのかしら。わからない。でも、主人が瞑想に行かなかったら、亜矢も瞑想になんか行かなかったはずです。亜矢が瞑想にいるなら・・・主人も・・・瞑想に行くはずだわ」
 操は話しながら確信を強めていくように声を大きくした。

 軽井沢駅の横手に駐車場があった。入口と出口以外をフェンスで囲った駐車場は満車だった。文也は車を駐車場の入口近くの路上に止めると、操を車に待たせたまま、駐車場の中へ入って、真奈美をつれてくることになっている車を探した。一通り歩いてみたが、どの車にも人の気配はなく、あきらめて駐車場を出て来たとき、聞き慣れた声を耳にした。
「おじさーん。文也おじさーん」
 道路の反対側に、軽トラックが止まっていて、その前で真奈美が飛び跳ねながら手を振っていた。文也が手を上げると、真奈美はさらに飛び跳ねて、両手を頭上で振り回した。
 文也は車のとぎれるのを待ちながら、真奈美を見ていた。ふと、こいつは俺にとってどういう意味があるのか、という疑問が湧いた。今まで考えたことも、頭の隅を過ぎったこともないその問いに、文也自身が頭を捻った。
 包むこともしないで差し出した紙幣を前に、真奈美を連れてきた男はとまどったように頭を振り、さらに怒ったように口を結んだ。真奈美が文也のシャツを引っ張った。
「すみません。僕は気が利かない上に、がさつなんです。真奈美が家出なんかするものだから、姉も動転していて。気を悪くしないでください、これは引っ込めます。許してください。済みませんがご住所とお名前を教えてください。そうでないと僕が姉から叱られます」
 男は黙ったまま、はち切れそうに膨らんだビニール袋を差し出した。ビニール袋からは、トウモロコシの髭が溢れ出ていた。文也は少し混乱しながら、頭を下げた。なんだか、すごく自分がずれているとしか思えなかった、まっとうな人間から。ずれている、はみだしている。頭を上げると男はもう歩き出していて、文也は動くことが出来なかった。
「文也、ドジこいたね」
 真奈美がそう云い、文也は金縛りから解き放たれたような気がした。
「おまえなあ、ドジはおまえだろうか。まあ、いい。ちょっと、話さなくちゃな。その辺の喫茶店で」
「その前に、服、買って」
 文也はそう云われて、しみじみと真奈美を見た。土だらけの靴と薄汚れたTシャッ。スカートもくしゃくしゃとしていて、確かにこのまま電車に乗せるわけにはいかない姿だった。
「文也、車どこ?」
「あっち」
 道路の向こうを指さすと、真奈美は目を凝らして車を見たまま動かない。
「だれ?」

 こんなところで、二度も同じアウトレットで女たちの服を買うなんて、と文也は思う。真奈美は助手席に座っている操が気に入らないらしく、後ろの座席でしきりにもぞもぞとしている。
「その車を運転していたのはどんなやつだったの」
 アウトレットへ向かう道すがら、文也がそう尋ねた。
「詳しく話して」
 操がそう言うと、はっとしたように素直になって、真奈美は話し出した。車に乗り込んだ亜矢と、そのあとを追って乗り込んだこと。不思議な音楽のこと。眠ってしまったこと。そして、携帯が鳴って、白い女がそれを取りあげようとしたこと。さらに、その女の耳たぶに噛みついたこと。自分が高速道路の路肩に投げ捨てられたこと。しかし、ポシェットの中にある食いちぎった耳たぶのことを、真奈美は話す気にはなれなかった。
「よかった、無事で。ほんとによかった」
 操がそう言ったとき、真奈美は久江を思い出した。
「ママに電話するから、携帯貸して」
 ハンドルから片手を離し、後ろの座席に座る真奈美に携帯を渡そうと、文也は左手を伸ばした。真奈美は受け取りながら、何気なく文也の腕を見た。時計のバンドが目に入った。ステンレスで出来たバンドに絡みつくように、栗色の髪の毛があった。視線を動かすと、操の頭があった。真奈美は髪の毛と操の頭髪を代わる代わるに見た。
「早く取れよ、危ないから」
 手から携帯の重さが消えないのをいぶかって、文也はそう云いながらバックミラーに映る真奈美を見た。真奈美は刺すような視線を操の横顔から、ミラーに映る文也の目へ移しながら言った。
「時計のバンドに髪の毛がついてるよ」  
 操が文也の手元を見た。その操の横顔を真奈美は見る。操は手を伸ばして時計のバンドから、髪の毛を引き毟った。
 投げ出すように置かれた携帯を、真奈美はゆっくり拾い上げた。白いワンボックスカーの中で、生爪を剥いだ指が痛んだ。どくんどくんと痛んだ。それは手のひらから腕へ、腕から心臓までつながっていた。心が痛いと思った。
「もしもし、ママ。今ね、文也に会った。それでね、私たち、亜矢を連れて帰るから。うん、大丈夫だよ、私たち喧嘩しないから」
 いやに明るい真奈美の声が車の中に響いた。真奈美が帰らないというのを誰も止めることができなかった。

 白銀屋の工場へ着いたのは午後の四時近かった。途中で二度ほど迷子になり、そのたびに道を戻ったり、ガソリンスタンドで住所を確かめたりしたために、時間がかかってしまった。文也は真奈美と操を白銀屋の工場と併設されている売店の前で降ろすと、車ですこし走ってみると言って行ってしまった。
 ふたりは、売店でジャムを買った。ジャムを買いながら、操は瞑想の場所を売店の人に尋ねる。首を振りながらも、親切に工場の幾人かに尋ねてくれたが、やはりはっきりとしたことはわからなかった。森の中の工場は隣接するファームと落葉樹の森に囲まれていて、隣近所という町中でのイメージなどでは思いもつかない広さがあった。しばらく待ったが、文也は戻ってこない。操と真奈美は回りを歩いてみることにした。道は一本道で、文也と行き違えることは考えられなかった。
 ふたりになると真奈美は意地悪な気持になった。文也の時計に着いていた髪の毛が操のものであったことが、とても不潔に感じられた。さらに、文也の時計のバンドから髪の毛を引きちぎった操の動作が、髪の毛が時計に絡みついた状況を連想させるに充分だった。真奈美の中では亜矢を捜すことよりも、文也と操を監視すること、さらにはふたりに起こったであろうことを想像するのに忙しかった。操は、車に乗せられてからの亜矢の様子を真奈美に尋ねては、無視され続けた。やがて操も真奈美の不機嫌の原因が、そのあたりにあることに気がつきだした。そして重たいため息をつくしかなかった。
「真奈美ちゃん、亜矢はどうして自分から車に乗ったのかしら」
 どうせ返事はもらえないとわかっていても、操は口に出さずにはいられなかった。それは、小さなつぶやきのようになって、繰り返されていった。
「どうして、自分から車になんか・・・」
 道は舗装されていたけれど、デコボコとしていて歩きづらい。操は真奈美からだいぶ遅れてしまった。今まで前方に見えていた真奈美の姿が、急に視界から消えているのに気がついた。操は走り出した。走りながら、真奈美ちゃんと呼び続けた。
 真奈美にはその声が届かなかった。夕方の風が吹いていたからだ。風は木々を大きく揺らし、木の葉を鳴らした。ざあっざあっと雨のように音が降っていた。真奈美は、その音の中に幽かな水の音を聞いた。道を横切るように細い獣道があった。真奈美はその道に入っていく。幽かな水音は少しずつ大きくなり、やがて水の匂いがした。操のことが気になって振り向いてみた。その時、緑の中を横切るものがいた。茶色い犬だった。犬は真奈美に気づいて一瞬立ち止まった。犬は顔が優しくて、体つきも猛々しくなかった。
「おいで」
 真奈美は犬を呼んでみた。犬は真奈美を見たが、仕事の途中だというように取り合わない。すぐに目的地へ向かって早足で去っていった。しかし、一瞬ではあったけれど、真奈美と目があった。真奈美はその時に見た犬の目に驚いた。真っ黒で大きな目は、亜矢を思い出させたからだった。こうしている場合じゃない、真奈美は殴られたような気がした。真奈美の頭の中で優先順位がくるっと変わった。
 真奈美は獣道を引き返した。途中から自分を呼ぶ操の声がした。その声は風の音に混ざり合って、とても哀しく聞こえた。なんでこんなに哀しい声なんだろう。孤独だからだ、と真奈美は思った。真っ暗な畑の中で孤独だったことが思い出された。見知らぬ畑のおばさんに抱きついて泣いたとき、自分は初めてそのことを知った。そして、今は人の孤独がわかった。
 ふたりは道を歩いていった。もう操は口を開かず、真奈美も黙ったままだった。
 避暑地の夕方はつるべ落としの太陽のように、突然に涼しくなった。真奈美と操は自然と寄り添うようにしながら風が体温を奪っていくのに耐えていたけれど、操が真奈美の肩に手を回してその肩を抱いたので、真奈美は片手を操の腰に回した。まだ空は明るかったが、直に夜が始まる気配がした。鳥は巣へ帰ろうと空を急いでいた。
 先の方で道は曲がっていたので、車の来るのを感じたとき、操も真奈美もそれが文也の車だと思った。だから、ふたりは道の真ん中に立ったまま、車を待っていた。車は白いワンボックスカーだった。真奈美はその車に見覚えがあった。操が慌てて、真奈美を引きずるように道の端に寄ろうとした。しかし、真奈美は操の腰に手を回したまま、動かない。
 車はクラクションを鳴らしながら減速する。真奈美は運転席を見つめている。異変に気づいて操が声を上げる。
「真奈美ちゃん、あぶない!」
 真奈美からは運転席の男の顔がはっきり見えていた。それと同じく、運転席の男も真奈美の顔は見据えている。クラクションがたて続けに鳴らされ、ブレーキが激しい音を立てて車が止まった。ふたりは車にぶっかったわけではないのに、どしんと尻餅をついて道にころがった。とっさに操が真奈美の頭を抱えるようにして道に伏せた。その脇を白いワンボックスカーはスピードを上げて通り過ぎていった。

「その車は、真奈美を高速道路に捨てていったやつなんだな」
 文也が聞く。
「うん。顔も覚えた。どこであってもすぐにわかる。若い男だよ。でも、日本人じゃないみたいだった。なんか、顔立ちがはっきりしていた」
「車のナンバーは?」
 真奈美は首を振る。操はすりむいた真奈美の膝をハンカチで拭いながら、車種とナンバーをすらすらとこたえる。文也はケイタイでそれを誰かに知らせる。
「向こうもこっちに気がついている。急がないとまずいな」
 文也は早く車に乗れとふたりに言う。ふたりは後ろの座席に列んで乗り込んだ。操は亜矢の膝をさすっていたが、突然悲鳴のような声を上げた。
「どうしたの! これっ」
 驚いて文也が後ろに首を回すと、操が真奈美に覆い被さるようにしている。真奈美はなにか隠そうとするように暴れている。
「なにしてるんだ」
 文也が車を止めると、ポシェットを両手に抱くようにしている真奈美の泣き顔があった。真奈美のスカートの上にチョコレートのドロップのようなものがあった。車に乗った拍子にポシェットから転がり出たそれは変色した耳たぶだった。真奈美は恐ろしさ歯をならしていた。
「お願い、一回、町へ戻って。どこか薬局へ。この子は怪我もしているのよ」
 操が真奈美の手を掴んで文也の前に突き出した。生爪を剥がされた指は太くなっていて、手のひらも赤く腫れあっていてた。文也がスピードを上げてると、後ろの座席でひそひそと話し声がしたが、文也はあまりそれに気を取られていなかった。
 操は真奈美のスカートからそれをつまみ上げると、ハンドバッグを開けて白いハンケチを出して包んだ。
「大丈夫よ、大丈夫だから」
 操はそう言いながら、自分も泣き出しているのに気がついた。
 真奈美のすすり泣く声が聞こえたが、文也には前だけ見て運転していた。空は暗くなり始めていて、一番星が大きく見えた。

次回は10月下旬頃に更新予定

過去の掲載

あらすじ
第一章 第二章
第一回 宮原昭夫 2005/5/23 第二十五回 添田ひろみ 2006/5/22
第二回 万リー 2005/5/23 第二十六回 添田ひろみ 2006/5/31
第三回 添田ひろみ 2005/5/23 第二十七回 添田ひろみ 2006/6/15
第四回 宮原昭夫 2005/6/21 第二十八回 宮原昭夫 2006/7/3
第五回 万リー 2005/6/21 第二十九回 万リー 2006/8/8
第六回 添田ひろみ 2005/6/21
第七回 宮原昭夫 2005/7/29
第八回 添田ひろみ 2005/7/29
第九回 万リー 2005/7/29
第十回 宮原昭夫 2005/8/30
第十一回 万リー 2005/8/30
第十二回 添田ひろみ 2005/8/30
第十三回 添田ひろみ 2005/9/22
第十四回 宮原昭夫 2005/10/17
第十五回 万リー 2005/10/26
第十六回 万リー 2005/11/8
第十七回 添田ひろみ 2005/11/19
第十八回 宮原昭夫 2005/12/4
第十九回 万リー 2005/12/12
第二十回 添田ひろみ 2005/12/20
第二十一回 宮原昭夫 2006/1/31
第二十二回 添田ひろみ 2006/3/9
第二十三回 万リー 2006/3/31
第二十四回 万リー 2006/4/14