夜の高速道路は、どこまで行っても同じようだ。オレンジ色の街灯に照らされた一様な広さと色の道路が、とめどなく、まるで生き物のように左右に少しうねったりまっすぐになったりし続けている。時折途切れる防音壁の隙間からは、ただ闇が覗くだけだ。
「……よし、30を超えた」文也が呟く。
「なんですの?」操が訊く。文也はフロントガラスの方へ顎をしゃくって、
「プレートの数字が」
操が改めて覗くと、道路のガードレールに取り付けられた緑の標識に記された白地の数字が、今しも31から32,33、と後方へ飛び去った行く。
「そろそろだと思うから……」ハンドルを握る文也がフロントガラスのほうへ身を乗り出すようにしながら、
「よく見ててください。どんな小さい物も見落とさないように」
スピードを落としたので、追い越し車線を次々に後続車が閃くようにすり抜けて行く。
「そろそろ、って?」助手席の操が訊くと、
「だから……」文也がもどかしげに、
「マナがケイタイしてきたと思われる地点。37って言ってたんです」
初め想定された、いくつかのコースのうち、さっき占いの老婆から得た情報から、軽井沢方面への高速道路一本に絞って追ってきた。
そんな会話をしている間も、ガードレールの数字はどんどん変り、37に近付いて行く。
「三枝さんは左の路肩を重点的にお願いします。おれは中央分離帯のほうを見てるから」
操も、助手席の窓ガラスを引き下ろし、外の薄闇に目を凝らす。やにわに防音壁に反射する車の騒音が、ワッと車内に侵入して来る。まだ残る昼の暑さの名残りも埃の匂いと共に割り込む。あんまりスピードを落としすぎたからだろう、追い越し車線をすり抜けざま鋭い警笛を浴びせて行く車もある。文也はしぶしぶ少しスピードを上げる。
「あっ!」操の声に、がくん、と文也は急ブレーキを掛け、
「なんかありました?」
「カラスの屍骸。潰れてる」
文也は舌打ちして、また車を発進させる。
「後続車がなかったから、よかったようなものの……」追突されたら大惨事だ、とぶつぶつ言っている。
「……もう、通り過ぎちゃったな」
やがて文也は、難しい表情で前方を睨みながら呟く。
「あれからずいぶん時間も経ってるから、同じところにじっとしてる訳はないか」独り言を言いながら、やにわにアクセルを踏み込む。加速する車中で操もホッとため息をつき、窓ガラスを上げて、また助手席の背もたれに体を預ける。
……やがて次のインターチェンジが近づく。「松井田妙義」という標識にぼんやり目をやっていた操は、思わずハッと背もたれから身を起こす。左車線を進んでいた車が、そのまま左端の出口車線へとためらいもなく入って行ったからだ。
「あなた、なにするの!」操が叫ぶと、文也は訝しげにチラッとそんな彼女に目をやり、
「なにを……って、高速を下りるんですよ」
「どうして?」
「どうして、って……?」文也は反問し、
「決まってるでしょ、マナを探すんですよ。まだこの辺にいる筈なんだから」
「そんなことしてたら、軽井沢に着くのが遅れるわ! 今にも亜矢の身に、どんな危険が迫っているか知れないっていうのに…… 寄り道なんて、とんでもない!」
文也は、委細構わず車を進め、料金所の機械にカードを差し込み、そのままゲートを出てしまう。
「ねえ、お願い! 早く高速へ戻ってちょうだい!」操は今度は拝み倒しにかかる。
「あのね……」見向きもせずに文也は夜の道に車を進めながら、
「初めに言ったでしょ、おれはマナの心配をしてるんで、あなたの亜矢さんのことなんて、どうだっていいんだ、って。マナのために必要なら、亜矢さんを探すのにも協力するけど、とにかくマナが優先だ、って」
操は絶句する。それでも、なんとか反論しようと焦って、
「……でも、どこを、どうやって探すの? こんな暗い中で」
文也も急に元気のない口調になり、
「それは……まあ、これから状況を掴んでから……」
「真奈美さんのことは、向こうから連絡が来るまで待ったほうがいいわよ。下手に動き回るより、そのほうがいいわ。ケイタイもあるんだし、きっと掛かって来るわよ」
「それなら、なんで、今まで掛かって来ないんです? ケイタイが使えるんなら、どうしてこんなに連絡がないんだ?」
「私に訊かれても……」操は当惑し、
「とにかく、真奈美さんのことは、なにかしら連絡がついてから動くことにして、ですよ、それまでは、とりあえず、亜矢のほうを先になんとかしましょう。ねっ! それでいいでしょ? だからここのところは、まず軽井沢へ着いて、瞑想セラピーの施設っていうのを探し出して……」
急に車が停まった。操が急いで窓の外の闇を見回すと、そこはどうやら広い農地の真ん中の農道らしく、車がすれ違えるようにそこだけ幅が広くなっている。
「どうしたの?」操が訊ねると、文也は、ハンドルに掛けた両手の甲に顎を乗せるようにして、むっつり、
「それじゃ、ここで待ちます、明るくなってマナが探せるようになるまで」
「そんな!……」操は悲鳴のような声を上げ、
「こんなとこにじっとしてたって、しょうがないじゃないの。そのくらいなら、早く軽井沢に着いて、向こうで……」
「マナはまだこの辺にいる筈なんだ。みすみすそれを知りながら、置いてきぼりにして先へ進むなんて、そんなこと出来やしない」
「だったら、亜矢はどうなるの? こうしてるうちに、亜矢の身になんかあったら、あなた、どうしてくれるんですか!」
「そう耳の傍で怒鳴らないで下さい。もしなんなら、あなた一人で行ってくださっても、構わないんですよ。タクシーでもバスでも電車でも何でも、乗れるとこまでは送ってってあげますから」
操は、なおもわめき続けようとして、急に黙り込む。
……小さな室内灯だけの車内は、まるで周囲四方八方から押し寄せる分厚い闇に押しつぶされそうだ。どうやら雲か霧でも湧いたのか、月明かりも星明りも見えない。
操は助手席の背もたれから身を起こしたまま、険悪な表情でフロントガラスの向こうの闇を睨んでいる。運転席では文也がリクライニングにしたシートに凭れて、これも機嫌のよくない顔で車の天井を眺めている。
文也が、もぞもぞとダッシュボードの辺りを探り出すと、操が、
「タバコは外で吸って下さい」硬い声で釘をさす。文也は溜息をついて手を引っ込め、
「……腹が減ったなぁ」と呟く。操はそれをツンとした顔で無視してみせるが、そう言われたら突然自分もすっかり空腹になっているのを意識してしまう。
「……なんだか、寒くなったな……クーラーを止めよう」聞こえよがしに文也が独り言を言うのにも、操は返事をしない。しかし、実は最前から困っていることがある。……文也は大丈夫なのだろうか? そういえば、さっきタバコを吸いに外へ出て行ったが、もしかしたらついでにそのへんで済ましてきたのかも知れない。……でも、まさか操はそういうわけにもいかない。
「……室内ランプ点けてるから、エンジン止めるとバッテリーがあがっちゃうしなぁ」
操は相変わらずそれを無視して、また亜矢への呼び出しを試みようとしてケイタイの蓋を開けるが、ふと気がついて思わず声を上げる。
「ケイタイの電気が切れそう!」
文也もあわてて身を起こし、さっき操の手から取り戻しておいた自分のケイタイをダッシュボードの上から取り上げ、開いてみる。
「……こっちも! ……ノートパソコンも、ヤバイな」
「切れたら、連絡の取りようがないわよ!」
「とにかく充電できるとこを探さなきゃ」文也はいきなり運転席のシートを起こす。
車を発進させる文也に、
「何処へ行くの?」
「……そうさなぁ……」暗い農道を走りながら、文也は思いあぐねている。
「あっちの方がほの明るいわね」操が左手の闇の彼方を指差す。
やがて農道が尽き、四車線ほどの一般道路に突き当たる。
「行ってみるか」文也はハンドルを左に切る。
車が停まった真横に、夜目にも煌々と全体がブルーにライトアップされているのは、まるでアニメに出てくる西洋のお城だ。尖塔やらドームやら望楼やら、ごてごてとくっついている青と白のツートンカラーの建物を車の窓越しに覗きながら、
「なにこれ?」訊ねる操に、
「……いちおうホテルです」文也は曖昧な口調で答える。
「じゃ、とにかくここへ入りましょう」
「……いいんですか?」
「だって、早く充電しなければ。部屋にコンセントくらいはあるでしょう?」
「まあ、コンセントはあるでしょうけど……」躊躇する文也に、
「早く入りましょうよ!」操は急かす。
お城の横に、長く青い縄のれんのようなもので目隠しされた駐車場の入り口がある。その縄のれんを車の前部で掻き分けるようにして下り坂の通路を入ると、駐車場の中は結構車が立て込んでいた。
車が停まると、操は
「じゃ、チェックインしといて」文也に声をかけ、サッと車外に出る。
「あのォ……」文也はおずおずと告げる。
「こういうとこは、前金なんですが……」
「そう」操はハンドバックから手早く紙入れを取り出し、車内の文也に手渡し、出来るだけ背に威厳を漂わせようと努めながら、足早にトイレを探しに出掛ける。
……操が戻ると、エレベーター前で待っていた文也が、紙入れを返しながら、
「満室で、スペシャルルームしか空いてなかったんですよ」と申し訳なさそうに告げる。
「そう、ま、仕方がないわね」操は鷹揚に頷く。なにしろ今は非常事態だ。非常事態だということで、費用も含めて、何でも許されるといった、タガの外れたような気分に操は浸されている。
エレベーターで最上階まで上がった。そのフロアにはドアが一つしかなかった。文也がキーを差込み、ドアを開けてスイッチを探り、明かりを点けて一歩退く。先に立って部屋に踏み込んだ操は、
「あ」と立ち竦む。建物の外観とは対照的に、室内は赤や黄やオレンジの暖色が溢れている。黄色いカーペットを敷き詰めたフロアの、ほぼ中央の透明プラスチックの仕切りを通して、これも透明な円形の浴槽が剥き出しに見えており、その湯船の底に照明器具が仕掛けられているらしく、そこから上方へ七色の光線が放たれている。
「なんで、こんなところにブランコがあるの?」操が頓狂な声を上げる。今はまだ湯が入っていない浴槽の真上に、天井から赤いロープが二本垂れ下がり、その末端に金色の座席が付いている。
「……こういうモンを使う人も居るんでしょうね」文也は仕方なさそうに答える。
「あら、滑り台もある!」操はまた叫ぶ。
部屋の右半分が中二階ふうになっていてベッドルームがあり、そこに置かれた深紅の巨きなベッドの裾の辺りから、浴槽に向かって、プラスチック製の短いが急傾斜の滑り台が設えられている。
さすがに操にもその利用法は推測がついた。ホテルはホテルでも、ここはそういったホテルなんだと、やっと彼女にも納得がいった。
操は、間のわるさにどんな顔をしていいのか判らず、不自然にはしゃいだ声を出す。
「なんだか大人の遊園地みたいね」
たしかにそれはあまりにも露骨で明るく、淫らなムードなど何処にも見当らない。
「どれどれ、ちょっと探検してみましょう」操はことさらおどけた仕草で、部屋のあちこちを見回り始める。
赤い天蓋に縁取られたオープンのベッドルームには、どこからでも上がれるように広く丸い真紅の階段が取り巻いていて、その頂上のベッドも真ん円だった。ベッドカバーも真紅で、縁取りと房が金色だ。
「うわ、凄い、広いわねぇ」操は、三畳一間ほどもあるその円形ベッドを見回し、試しにベッドカバーの上に寝転がってみる。とたんに、
「ワッ!」と叫んで彼女は跳び起きる。自分のすぐ上で何かが動いたのだ。
改めて確かめると、それはベッドの真上のやはり真ん円で巨大な鏡だった。それに操自身の全身が映ったのだ。
「ああ驚いた」操が溜息をついてまた座り込むと、
「コンセント、ありました」文也はベッドの枕元の、まるで飛行機のコックピットみたいにスイッチや目盛りが並んだパネルをいじりながら告げる。
「よかった、すぐに繋ぎましょう」操は、ハンドバッグからケイタイ充電用のコードを取り出しながら、
「あなたも、こんなとこ、はじめて?」
文也は返事に窮した様子で、操から受け取ったコードをコンセントに繋ぎながら、
「……こんな部屋は初めてですよ」
「そう、それじゃ……」言いかけて、
「ワッ!」また操は跳び上がる。彼女の尻の下で、円形ベッドの表面全体が一斉にでこぼこと蠢き始めたのだ。
「なにこれ?」立ち上がって呆然とベッドを眺めている操に構わず、
「へえ、こうなってるのか」文也は感心したようにパネルのスイッチをあれこれいじっている。
「やめてください、悪趣味な!」操は急に不機嫌になる。文也はきまりわるげにスイッチを切り、
「それにしても腹が減ったな」とぼやく。
「喉も渇いたわ」ベッドの端に恐る恐る腰掛け直しながら操も呟く。
「ルームサービス頼めないかしら」
「そんなの、ないんじゃないかな……さっき、下のロビーに自動販売機があったみたいだけど」
「お願い、何か見つけて来て下さらない?」操はハンドバッグからまた紙入れを取り出す。文也はいやに慣れた手つきでそれを受け取り、
「ドア、ロックして行きます」キーを一振りして見せてから、ベッドを下り、戸口へ向かう。ベッドの側からそっちを見ると、壁もドアの内側もブルーで、壁際の床には白いプラスチックの粒が敷き詰められ、部屋の隅には模造の椰子の木まで立っている。
文也が出て行った後も、そっちを見ていた操は、突然びっくりしたように辺りを見回す。私は何をやってるんだろう、こんなとこで!
操のこれまでの人生は日常的な出来事の連続だったから、こんなに立て続けに非日常的な空間にばかり身を置いていると、なんだか次第に現実感覚が彼女から抜け落ちてゆき、夢の中にいるような一種の無感覚に犯されて、何があっても当たり前みたいに思えてくるのだった。
だが、この瞬間、見知らぬ場所で急に目覚めたように、操は心細くなる。
だから、やがてキーの音がガチャガチャして、両手に色々抱えた文也が戸口に現われた時には、その眉毛が八の字に下がった気の良さそうな丸顔が、いやに頼もしく見えてしまう。
部屋の隅の偽の椰子の木の傍に置かれた、青いカンバス張りのデッキチェアで、二人はカップラーメンをすする。脇の白いプラスチックの小卓にはコーラとおーいお茶のボトルが立っている。白い電気湯沸かし器も乗っている。
「……ごちそうさま」操はフォークを置く。
「お口には合わなかったと思いますけど、ほかは酒のツマミばっかりで……」文也が言い訳する。
「おかげさまでなんとか人心地が付いたわ」操はおーいお茶のボトルを取り上げる。だが、何はともあれこうしてお腹に何か入ったら、俄然堪らないほどの眠気が彼女に押し寄せて来る。
昨夜は殆ど眠っていないし、今日は一日、なんと色々なハプニングが続いたことだろう、それも彼女にとっては生まれて初めての、そして昨日までは一生そんなことが自分の身に降りかかってくるとは思ってもみなかったようなことばかりが。
どうにも逆らいようもなく周囲の光景がぼやけて二重に見えてくるのに懸命に耐えながら、彼女は立ち上がり、
「充電、終わったかしら」立ち上がり、真紅の階段をおぼつかない足取りで上って、ベッドの枕元を覗きに行く。
腹這いになって、ケイタイに着信の無かったのを確かめ、念のため亜矢を呼び出してみて相変わらず不通なのを確認したまでは、操は覚えていた。しかし、そこで彼女の意識は途切れた。
いつも夢を見る時と同じように、操もそれを事実と思っていた。光輝が彼女の体を弄んでいた。彼女は彼に向かって体を開きながら、大丈夫かなと思った。だから、彼が彼女の中に入ってきた時には、よかった、と思った。今度は大丈夫だったわ。随分久しぶりだな、とも思った。さっきホテルで半端に終わってもやもやしていた体の芯が柔らかくほぐれて行く思いがして、息が弾み、肌が潤った。――どう、いいでしょ、小娘より、いいでしょ……亜矢に勝ったわ、これで勝ったわ――
光輝があわや果てようとして全身を固くしたのと、操が我に返ったのとが同時だった。これは光輝の匂いではない! そして自分が抱きしめている裸の背中も、手触りが違う。光輝よりも引き締まり、胴回りが細い。
操はとっさにその体の下から逃れようとして全身を仰け反らしてもがいた。だが、彼女の上の男はあらん限りの力で彼女の腰を抱きすくめ、その体を彼女にしゃにむに押し付け続けた。その全身が激しく痙攣した。痙攣は二度、三度と続いた。その度に操の中に男が注ぎ込まれた。
……手遅れだ。全身の力を抜いた操は、呆然と天井を見上げていた。天井の鏡には、男の背中の陰から、その肩越しに顔だけ覗かせている女が、じっとこっちを見下ろしていた。それはまるで大きな白い花のようで、いやに目だけ大きく見え、口がなまなましくて、どうにも自分の顔とは思えなかった。
男の背中はTシャツを纏ったままで、下半身だけ裸だった。剥き出しの尻が、なんだか滑稽だった。その実際の体は操の上で、やはり全身の力を抜いてぐったりとしていた。それは、やけに重かった。
操はそのままの姿勢で、なおも鏡を見上げている。鏡の中の操は白いサマージャケットも黒いノースリーブのブラウスも身に付けたままだ。ジャケットもブラウスも真紅のベッドカバーと二人の体との間でくしゃくしゃだ。男の体の陰の彼女の下半身は、何時の間にかすべて脱がされて剥き出しになっている。
彼女は体の上に男を乗せ、自分の下半身に直接男を密着させたまま、じっと身じろぎもせずにいた。男が自分の上から下りてこっちを向いた時、いったいどんな表情をしたらいいんだろう。怒ればいいのだろうか、それとも照れ隠しに笑えばいいのか。まさか泣いてみせるわけにもいくまい。
……だしぬけに賑やかなサンバのリズムが枕元から湧き起こる。操がビクッと体を強張らせたのと同時に、彼女の上の体も同じように引き攣れる。
文也は操の上から転がり落ちるように一回転して、慌てて自分のケイタイを充電コードごと掴みあげ、蓋を開けるのと通話ボタンを押すのとを殆ど同時にやった。
「もしもし、あっ、あんたか!……」文也は狼狽して、空いたほうの手の人差し指を自分の唇の前に立て、操に向かってぺこぺこ何度も頭を下げてみせる。
「ううん、別に慌ててなんかいないよ。……いま? うん、車の中だ。……ほんとだってば。それより……え、マナと連絡がついた? そうか! それで? ……うん、うん……」
文也がケイタイに応答している隙に、操は素早く起き上がり、ベッドサイドの床に散らばっていた下着やパンツなどを引っさらって、慌ただしく身に付ける。文也も、通話しながら無理な姿勢でブリーフを穿いたりジーンズに足を通したりしている。なかんずく、片手で避妊具を処理してティッシュに丸め込むのにはひとしお難渋していた。
車は再び松井田妙義のインターチェンジから高速道路へ入った。昨夜は見えなかった沿道には、遠く近く山が重なり、その山襞にはまだうっすら朝靄がまつわっていたりする。朝からいいお天気で、今日も暑くなりそうだ。
文也はハンドルを操りながら、ときおり素早く助手席の操の横顔に視線を投げる。それを感じながらも、操は視線を前方へ向けたまま、ひっそりとしている。彼が目を向ける度に、身に付けたジャケットもブラウスも皺だらけなのを、痛いほど彼女は意識する。あの部屋のシャワーは透明な浴室の中にあったので、操にはとうてい使えなかった。
何度かそんな彼女に目をやった挙句、
「怒ってるんですか?」文也が声を掛ける。操はゆっくりと顔を回し、ちょっとのま彼の横顔を見ていてから、
「どうして?」と反問する。今度は文也が前方を向いたまま、
「だって、悲しそうな顔してるから」
操はまた視線を前方へ戻し、暫く黙っている。それから、
「……ひとを責めるわけにはいかないわ」疲れたような声で呟く。そのまま二人はしばらく黙って車の進行に身を委ねている。不意に、操の体の中に、あのとき押し入ってきた男の体の感触が一瞬なまなましく蘇り、操は密かに顔を赤らめる。同時に、何かフッと心の隅を掠めるものがあった。……何だったろう、どうも思い出せない。
……あの後、文也はあの部屋で、ことさら事務的な口調を装いながら、真奈美を保護してくれた農家の夫婦が、今日の正午に軽井沢の駅まで彼女を送り届けてくれることになった、と告げた。真奈美の母と先方との相談でそう決まったのだという。
正午までには、まだ数時間の余裕があったが、これ以上この部屋で顔を突き合わせているのも気詰まりだ、という思いが言わず語らずのうちに通じ合って、とにかく早く軽井沢の駅の辺りへ行こう、ということになった。瞑想セラピーの拠点の探索を始めてしまおうというわけだ。
碓井軽井沢のインターチェンジまでは、十分あまりで着いた。そこで高速を下り、群馬県と長野県の県境を越えて国道43号線を北上する。40分余りも走っただろうか。その間、二人とも殆ど言葉を交わさなかった。
唐突な感じで、なんだか玩具箱のような町並みが眼前に現れた。真黄色の時計台とか、ジュリエットでも現われそうなバルコニーとか、有名タレントの名を冠したケーキ屋の戸口に立っている彼女の等身大の人形とか……。それまで車はいかにも田舎の山道といった鄙びた景色の中を走り続けてきたので、その異様さが尚更強調されて感じられる。
「ええと、なんとかいうジャム屋が目印だって言ってましたよね、あの占い婆さん」
「ええ、白銀屋……」小声で答えてから、操は、「でも、その前にちょっと寄りたいんですけど」
「どこへ?」
操は自分の膝の辺りを見回すようにして、
「着替えも持って来なかったし、いろいろ衣類を買い足さないと……」
「ああ、それなら……」文也は熱心に頷いて、
「たしかこの近くにアウトレットがあったはずですよ」すぐさま道路脇に車を寄せ、ダッシュボードからロードマッブを取り出し、辺りの町並みや標識たちと見比べ始める。
操は行き先を文也に任せ、助手席に背を預けて何処を見るともない視線を前方へ投げる。
最前からなんとなく心の隅に引っかかっていながら、どうしても思い出せなかったこと……それが突然蘇ったのは、そのときだった。
――あのとき、私は夢の中で口走ったんだ、<亜矢に勝った>って。……どうしてあんなことを言ったんだろう? ……なにか、まだ心が気づかないでいることを、体が気づいてしまった、とでもいうのだろうか?――
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