色鳥 リレー小説の試み

第二十四回 万リー

 吐き出した物が、高速道路灯の灯りに照らされて、胃液の真ん中に浮かんでいるように見えた。白い貝殻みたいだと思ったのは、吐き出した物が耳たぶで、その耳たぶには小さなほくろが一つと、ピアスの穴が二つ開いていたからだった。そしてなによりも、ふっくらと中央が盛り上がっていて、肉片であるにもかかわらず、白く綺麗だったからだ。
 真奈美は摘みあげた。トラックがすぐ横を走り過ぎて、高速道路の路肩は猛烈に揺れた。ここにぐずぐずしているのは危険で、恐ろしかったが、これを捨てていくわけにはいかないと思った。ポシェットから、ハンカチを出して耳たぶを包むと、這うようにして少し前に進んだ。百メートル先の路肩の遮音壁に扉らしい物が見えた。非常用の扉だとすれば開くはずだ。真奈美は立ち上がり走った。横を高速で走る車が追い抜いていく。そのたびに、道路が揺れて体が飛ばされそうになった。警笛を鳴らす車もあった。
 そんなことされても、どうにもならないよお、ばかやろ。
 怒鳴り返してやりたかったが、唇は糊で粘り着いたように離れない。
 扉は簡単に開いた。しかし、そこには細い階段があるだけだった。下には道がない。もっと遠くまで見ようとしたが、暮れかかったもやの中に霞んで見えない。見えるものは、ただ一面の雑草の海で、それが、風にうねっていた。それでも、高速道路の路肩よりはましだ。ぐらぐら揺れる階段をなんとか一段ずつ下りる。階段から最後の足を離すときに、真奈美はそこが底なし沼かも知れないという恐怖に襲われた。それほど草は深く、地面など見えなかった。さらに、夕暮れは彼方に見える山を黒く染め、人の営みの作る明かりはどこにも見あたらなかった。ただ、高速道路の上から囂々と車の走り去る音が振ってくるだけだった。
 土に足が着くと、草が思いの外背が高いことに気がついた。やっと首から上が出るほどの高さの草がどこまでも続いているように見えた。心細さに、鳥肌が立った。ここがどこなのか、まったく分からなかった。黙ったまま立っていると、蛙の鳴き声が聞こえた。やがて、その声は頭上の車の音よりも大きく聞こえ出す。
 すげえ、田舎・・・。
 ひとりぼっちが、こんなに恐いとは思わなかった。いつも、自分はひとりぼっちに慣れていて、群れないと寂しいと思っている友だちを馬鹿だと思っていた。ほんとはみんなひとりなんだから。友だちは互いに抱きつきあっているようにも、縛りあっているようにも見えた。私はあんなふうにはならない、絶対にならない。真奈美は寂しさと引き替えに、不自由になるのなんかまっぴらだと思っていた。しかし、それは人がたくさんいる中でのことだった。ここは、ただ草と姿の見えない蛙の声しかしなかった。
 抱きついたら終わりだよ、気をつけないと抱きつき魔になるからね。
 母の久恵の声がよみがえる。
 だけど、それは人間のいる世界でのことだよなあ、ここってハンパなさすぎ。
 真奈美は言葉にして自分の声を聞く。自分の声が頼りだと思った瞬間、ケイタイを思い出した。ポシェットからケイタイを出そうとして、そこにあるハンカチに手が触れ、痺れたようになった。それでも、指でポシェットをかき回す。
 なんでよおー。ちきしょう、なんでないのよお。
 真奈美はポケットを探す。そして、自分の服にポケットなど一つもないことを知る。ケイタイがない。高速道路に登る階段を見上げた。高速道路は恐かった。でも、ケイタイがない限り、誰とも繋がっていられない。探す・・・しかない。
 手をかけると、階段が揺れた。足を載せると更に揺れた。扉まできて、真奈美は愕然となった。扉には外側からの取っ手が着いていなかった。ただ、大きな鍵穴があるだけだった。真奈美は頭蓋骨の内側が縮んでいくような気持がした。声を上げて泣きたかった。
 おまえよお、泣くとブスな。泣いてかわいく見える女と、泣いてブスになる女は、ぜーんぜん違うのね。まあ、踏ん張って泣かないとか、ブスになってもいいから泣くとか、よく考えておけよ。
 文也の声が耳の中でこだまする。くそっ、くそっ、と言うと、しゃくり上げてくるものがあった。階段につかまったまま、振り向くと、灯りの固まりが見えた。近くに見えたが、それが遠いことはすぐに分かった。涙は噴き出す前に止まった。
 地面に降り立つと、灯りは見えなくなった。左の掌の生命線の終わりのところを今の場所だとすると、灯りの辺りは人差し指の付け根の方向だった。階段の上でそう頭に叩きつけておいてよかった。真奈美は少し自分を誉めたい気分になった。
 真奈美は草をかき分けて歩き出した。恐いので、歌を歌おうとしたけれど、なにも思いつかなくて、ただ黙って歩いた。いろいろな匂いがした。蛙の鳴き声は重なり合って、気持ちが悪いほどだった。いくら歩いても草原から出られなかった。時間が分からないのも恐かったが、真っ暗な中でも、掌の生命線は見える気がした。命の最後のところから、人差し指へ向けて、だ。真奈美は掌を少し回した。掌が見える気がしたのは、気のせいではなかった。月があった。
 突然、草原が消えて、畑に出た。なんだか分からない葉野菜を溢れるように乗せて、畝は続いている。人だ、人の足跡がある。手の跡もある。畝の間の土に真奈美はそう思った。走るように畝をいくと、また、とぎれては畝が続いた。気がつくと、方向は分からなくなっていた。畑のずっと向こうに、人の立っているような影が見えた。真奈美は走り出した。なんだか声が出て、すみませーん、すみませーんけどー、と怒鳴りながら走った。
 それは人ではなくて、形ばかりのトタンの屋根を乗せた小さな小屋だった。犬小屋の天上を高くしたような物で、扉を開けると異臭が鼻を突いた。肥料の袋があった。口が開いていて、猛烈に臭い。口で息をしながら見回すと、小屋の内側にはスコップや鍬が立てかけてあり、麦わらの帽子がその上に乗せてあった。さらに、上っ張りのような物まで帽子の横に垂れ下がって見えた。真奈美は小屋から出て畦にしゃがんで放尿した。そして、深呼吸をしてから小屋へ戻り、肥料の袋から離れてしゃがみ込んだ。すぐに眠気が訪れたが、それと同時に寒さにも気がついた。麦わら帽子をかぶり、上っ張りを羽織った。なんだかそれだけで、充分落ち着けた気がした。体は少しずつ傾いで、真奈美は円い胎児のような姿勢のまま、土の上で肥料の袋に背中を押し当てて眠った。

「だいじょぶか、おい、おい」
 体を揺さぶる手を無意識に払いながら、真奈美が目覚めたのは、夜が明けてまだ時間の経っていない頃だった。真奈美を起こしたのは夫婦とおぼしき二人連れで、ふたりは真奈美から麦わら帽子をはぎ取ったあと、首に巻いていたタオルをはずして真奈美の頭に着いた物を払ったり、顔をのぞき込んだりしている。
「どうしたのお」
 女が聞き慣れないイントネーションで尋ねた。
「なんかあったのお。どこから来たのお」
 真奈美はどう応えていいか分からなかった。仕方がないので、頭を横に振ってみた。ふたりは顔を見合わせている。
「立ってみな」
 真奈美はパンツが見えないように、短いスカートの裾を引っ張りながら立ち上がった。
「東京から来たかね」
 しゃべっていたのはほとんど女だった。その女の顔にはたくさんのシミがあった。たったひとつの目尻のシミに大騒ぎする久恵が、こんなにシミだらけになったらどうするだろうか。ほんとうは人と出会えて、助かったと叫びだしたいくらいなのに、どう説明したらいいか分からない亜矢のことや白い車のことや、さらにはポシェットに入っていた耳たぶのことで心がふさがれて、真奈美は口が開けられなかった。
「ちょっと待ってなさい。今、仕事が終わったら、町まで連れて行ってあげるからなあ。時間が決まっているんだ、あれを、組合に持って行かなきゃならない」
 男はそう言い、畑の方を指さした。 
 真奈美はうなずいて、小屋の隅にしゃがみ込んだ。トイレに行きたくなって、そっと小屋から顔を出すと、ふたりは葉野菜を抜き取って四角い大きなプラスチックの篭に入れている。それぞれの場所が離れているので、時たま声を掛け合うときには大声になり、真奈美の耳にも届いた。
「警察へ連れて行こう」
 声は男のもので、相づちを打つ女の声が重なった。
 警察・・・真奈美はぶるっと身震いして、ポシェットを握りしめた。もし、それを見せろと言われたら・・・あれも見つかっちゃったら。混乱した。自分はなにをしたいのか、家に戻りたかった。しかし、亜矢を連れ去られたことが重大な過失のような気がして、自分だけ家には戻れない気もする。さらに、人を傷付けた証拠がポシェットの中にはある。あの人はどうなったんだろうか、死んだりしないよな。亜矢はどうしていいるだろうか。亜矢を探す! そうだ、亜矢を探すんだ。そして一緒に帰らなくちゃ。警察には行きたくない、家に帰るためには一番早い方法かもしれないけど、一番早い方法がいいとは限らない。そうだ、母さんはいつもそう言っていた。
 お腹がすいて痛いくらいだと感じたとき、ぐうとおへその辺りで音がした。それは、ダッシュの号令だと真奈美は思った。真奈美は、畑の向こうに留めてあった軽トラックを見た。あそこには道がある。とりあえず道に出よう、道はかならず町まで続いているだろうから。走り出すと、一度振り向いた。畑の中で、ふたりは立ち上がってこっちを見ていたが、追ってくる気配はなかった。真奈美が軽トラックの横を走りすぎようとしたとき、軽トラックの中から携帯電話の呼び出し音が響いた。ケイタイが欲しい、と真奈美は思った。走りすぎながら振り向くと、ふたりはまだこっちを見ていた。いったん、軽トラックを無視して道を挟んだ畑へ飛び込む。そして、しばらく走って地面に伏せた。ふたりがしゃがみ込んで仕事を始めるまで、真奈美は頭を土につけていた。どうぞ、気がつきませんように。二十数えて体を起こすと、ふたりの背中が見えた。ふたりは相変わらず離れたところで、それぞれの作業をしていた。真奈美は腰を曲げたまま、軽トラックに走り寄り、その窓の開いた軽トラックの助手席のシートから、今は鳴りやんでいるケイタイを掴んだ。そして、再び畑の中へ走り込んだ。畑はしばらく続いていたが、小さな水路が突然行く手を塞いだ。水路は一メートルほど下を流れていた。橋は彼方にあった。真奈美は水路に降りた。そして、土手のようになった水路の壁面に寄りかかり、ケイタイを見た。機種が違っていても真奈美はとまどわなかった。
「もしもし」
 そう言ったけれど相手の電源は切られていた。亜矢の馬鹿。
「もしもし」
 次ぎにその言葉を発したとき、真奈美が思わずケイタイを耳から話すほどの大きな声がケイタイから響いた。真奈美はしばらく、その声を聞いていた。それは繰り返される自分の名前で、久恵の怒りと安心が伝わってきた。突然それはやんで、いつもの久恵の声に戻った。
「あんた、早くしゃべりなさい」
 真奈美は、昨夜からのことを話し出した。そして、最後に、今の場所を伝えるために周りを見回した。なにも目印はなかった。そう伝えると、久恵はそのケイタイの番号を教えろといった。いじくり回していると基本というところにケイタイの番号が出た。久恵は指示してケイタイを切った。真奈美は久恵の言葉通り、ケイタイを持って走り出した。
 畑の中のふたりは差し出されたケイタイを見て、ぽかんとしていた。
「ごめんなさい、勝手に使って。でも、お母さんに連絡を取りたかったの」
 そう言っていると、お芝居のように涙が出た。ブスに見えているはずだ、文也に会いたいと思った。ケイタイが鳴った。女はケイタイを耳に当てた。久恵の声が、かすかに聞こえた。
「はあ、ああ・・・はい、んまぁ・・・」
 女は真奈美を見ながら受け応えをして、男にケイタイを手渡した。男はしばらく久恵の話を聞いてから、いいですよと応えた。そして、ケイタイを切ると、真奈美を見て言った。
「家出はよくないね。叔父さんが軽井沢の駅まで迎えに来てくれるそうだから。ええと、叔父さんの名前は・・・」
「文也、渡辺文也」
「送っていってあげるから、もう、家出しちゃ駄目だよ」
 真奈美は、家出をしたことにするという久恵の提案に従っただけなのに、ほんとうに自分が家出娘のような気分になった。昨夜の闇が心に広がると、喉の奥から熱い固まりがせり上がってきて、わあっと泣きだした。なんで泣くんだろう、泣けるんだろう、お芝居じゃない、これってお芝居じゃない。背中を撫でられると、そんな意識もなくなり、腹の奥に溜まったなんだか分からない寂しさや苦しさが、次々とあふれ出していくのを感じた。自分がほんとうにひとりであることの怖さを知ったからだと、真奈美が気づいたとき、涙は止まり、腹の底が見えたと思った。

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