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眼下には夜の街が広がっていた。操の乗ったBMWが静かに動き出し、視線から消える。
亜矢は保護されている。大切に守られている。そのことをきちんと伝えられたら、操はここにいただろうか。光輝は外を見つめる。キャバクラやソープランドの看板が入り乱れる真ん中で、スロットマシン店の見覚えのあるバニーガールがしきりにウインクをよこす。『瞑想セミナー』は、ウサギの耳の陰になっていて見えない。ギラギラと脂ぎった光を放つ繁華街とは対照的に、駅の表玄関にあたるスクランブル交差点からは規則正しく道が伸び、温かい家の灯が続く。暗い一角はたぶん運動広場だろう。朱鷺が丘第一運動場という名称があるのに、子供たちはなぜだかツマンナイ公園と呼んでいる。
ツマンナイか…。
その言葉を耳にするたびに身に詰まされた時期があった。何も不満がない、何も不足がない日々。その真ん中に操がいた。
操に抱いてくれと迫られたとき、なぜはっきりと拒否できなかったのだろうか。成熟した体が今ではむしろ不快だということを、なぜ打ち明けられなかったのか。
こんな事態に陥ってもなお取り繕うとした自分が、場違いなギャグを唱える芸人のように矮小に思えた。
それとも、俺はまだ何か期待しているのだろうか。
公園の二ブロック先にある自宅辺りは住宅地の穏やかな闇に包まれ、マスコミの喧噪は感じられない。洋館風の造りにこだわったのは、操だった。ピアノが気兼ねなく弾けるのがうれしいといった。庭には季節の花が植えられたが、光輝にはどうでもよかった。マンション暮らしには冷たさと無関心さが同居していて、光輝には快適だった。もともと家庭生活には向かない質だったのかもしれない。結婚も受け身だった。独り身でいられるなら、その方がよかった。肉親に縁が薄かった。実の両親を知らず、祖父母に育てられた。母親は十五の時に光輝を身籠もった。父親は誰なのか、レイプだったという噂も耳にした。少女は母親にならず、海外の親戚に養女に行き、大学を出、結婚したという。会ったことはない。会うこともないだろう。知っているのは一枚の写真。セーラー服を着た少女が笑っている。仏壇の引き出しから出てきた。
我が家。亜矢。亜矢はいい。亜矢はすばらしい。光輝はたちまち高揚し、今すぐにでも抱きしめたい思いに駆られた。この思いは絶対に遂げられなくてはならない。操のときには萎えていたものが硬くそそり立ち、光輝は力が漲っていくのを感じた。
亜矢に会うためには何をすればいいのか。
弛緩していた脳のシナプスが繋がっていき、警察という単語に行きついた。光輝は急いでテレビをつけた。リモコンを動かし、ニュース番組を探す。
「関東は全般的に天気が崩れ、久しぶりに恵みの雨となりそうです。お出かけには必ず雨具をご用意下さい」
女性予報士の解説が終わると、すぐにニュースが始まった。光輝の勤務先の工場がアップになる。ファンシーズ、粉飾決算、東京地検の査察が入ったうんぬんの報道に続いて、コメンテーターがパネルを使って事件のあらましを説明し始める。工場のライン以上に受注があったこと、それは工場のキャパシティをはるかに越えていること、架空の発注をし、売上げを本社に計上することで本社の計上利益は黒字決算になるからくりで、実は三年前から赤字が続いていたこと。図にはファンシーズが所有しているゴルフ場やホテル、バレーボールチームなどがコメンテーターによって付け加えられていく。関連企業の赤字の穴埋めと、さらにここ数年、ヒット商品が出ず、三年前にイメージガールとして採用した女優Tの覚醒剤事件も下降ラインに拍車をかけ、焦っていたのではないか、と分析する。
続いて本社の笠井代表取締役のインタビューに切り替わる。場所は本社前のエントランスで、光輝がデザインした壁のタペストリーが、皮肉にも祝賀会のような華やぎを醸し出している。金糸銀糸に綾取られた空を、鳥が群れを成して飛び立つ。羽にはファンシーズの隠し文字が織り込まれている。先頭を行く青い鳥の足に、光輝は赤い紐を結んだ。そこにAYAと刺繍したことを知るものはいない。制作者だけに許されたささやかな戯れ。亜矢が生まれてすぐの仕事だった。
笠井は、工場辞令を命じたときには適度に白髪が混ざり、眼光も鋭かったのだが、髪はすべて白髪に変わり、額も大分後退していた。笠井は、営業本部長と工場単独の不正であることをしきりに強調した。工場長はなぜインタビューに応じないのか、本社会見を開いて欲しいなど、詰め寄られると、自分はわからない、何も知らない、工場側に聞いてくれ、と記者を振り解いて車に乗り込んだ。笠井がいなくなったエントランスで、カメラはタペストリーを映し、赤い紐をつけた青い鳥にファーカスを絞った。
「明治時期絹工業から始まった、我が国を代表する企業ですよね」
「ええ、本当に老舗中の老舗で」
「行き先を見誤ったのでしょうか」
光輝はテレビを消すと、外線から岡部に電話をした。ホテルの電話を私用すれば記録が残るが、この場合は必要だとも思った。自分がここにいた証拠、ここで岡部にすべてを託したという証拠。
「副(工場)長…」
岡部晃司の切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。
「検察が来て、僕もいろいろ聞かれて。知ってたんですか、今日の査察のこと」
「いや、昼間、知ったんだよ、ニュースで」
「じゃあ、本当に内々だったんですね。でも、どうして出社なさらなかったんですか。まずいですよ、まるで首謀者みたいになってます」
「わかってる」
「副長が関与していないことは、僕が一番よく知っています。だから、出てきてください。今、どこにいるんですか」
光輝はホテルの名前を告げ、一度深呼吸をし、まだ会社には出られないといった。
「どうしてですか」
「一つ、すませなければならないことがあるんだ」
「何です、それは。会社のことですか」
訝しがる岡部に、家族のことだと話す。こんな事態になって妻がひどく動揺して、と続けると、「ああ、それで」岡部は納得した声を出した。
「ご自宅に電話をしても留守で、ケイタイにご連絡差し上げたのですが、まったく繋がらなくて」
「すまんことをした」
「いいんです。わかりますから。うちも今大変で、家内と子供を実家に帰しました。でも、一体どういうことなんだか、僕には何が何だか」
光輝は岡部に自分なりの見解を明かした。これは本社ぐるみ、というより、創業者一族である石田家が行った工作であること。捕まるのは笠井代表取締役と営業本部長の安藤という筋書き。だが、自分も今は危ない。石田社長は辞職という形で引責するだろうが、次期社長には長女の夫がひかえている。石田の息子である工場長の石田敦は、もともと肩書きだけで入退院を繰り返している身だからお咎めなし。その分、光輝やその周辺への追及が激しくなる。
「じゃあ、僕たちはスケープゴード…」
それからあっ、そうだったのか、と岡部は声を上げた。
「畑違いの僕たちがここに移動になったのは、すべて仕組まれたことだったんだ。いつか、こんな日が来たときの保険として」
空しい笑い声が続いたが、それはやがて啜り泣きに変わった。
岡部は元は広報課だった。二人とも製造とはまったく縁がなかった。畑違いなのにどうして、と不満を漏らしながらも辞めなかったのは、年収が二階級分もアップしたからだった。アートディレクターだった光輝は室長クラスの年収を支給された。また、数年後にはクリエイティブの現場に戻すという条件も大きかった。岡部も似たような状況だったのだろう。
どうしたらいいんだ。岡部が暗い声を出す。
「副長は、いつから気づいたんですか」「まさか、初めから…」
安藤から来る注文書の数字が一桁増えていることに気がついたのは暮れだった。二年以上もいればどんな素人でも、工場の受注能力ぐらいはわかってくる。安藤に連絡をすると、問題はない、君はサインだけしてくれればいい、といわれた。気になって、年明けに書類を辿っていくと、安藤の承認印が押された注文書にかぎり納品の事実がなかった。
「半年前だ」
「何でいってくれなかったんですか。僕は直属の部下ですよ」
「いってどうなる」
「でも…」
光輝はとにかくホテルに来るように告げた。自分の業務日誌と安藤の注文書のメールを今まとめている最中なのだ、とも話してやる。
「君は何も知らなかった。だから、堂々としていれば良いんだ」
電話を切ると、脳裏に辛かった日々が蘇った。不眠が続き、うとうとしたかと思うと、嫌な夢を見た。手錠をかけられる夢。轢死する夢。鳥の夢を見てから、何かが変わった。光輝は小鳥を追っていた。実家の裏山によく似た場所で、青竹が密生していた。光輝は口笛を盛んに吹き、囀りの真似をした。小鳥は一度は逃げたが、青竹を縫うように飛んできて指に留まった。美しい鳥だった。白い羽が、光の加減で銀色にも金色にも見えた。光輝はうれしくなって小鳥に頬をすり寄せた。気がつくと、雪がさかんに降っていた。羽毛だった。無数の羽毛が舞っていた。小鳥はいなかった。光輝はまだ温もりの残る頬に手をやった。頬は濡れていて、手を広げると血がべっとりとついていた。
なぜ殺したのかわからなかった。寂しさはあったが、悲しみはなかった。股間が濡れていた。小鳥の血の感触に似たそれを、光輝は操に気取られないように処理をした。
腕時計を見る。十時過ぎ。外で激しくクラクションがなり、胸が騒いだ。操はどの辺を走っているのか。亜矢の友だちは見つけられたのか。それよりも警察に通報したのかどうかが気になった。通報していれば、もう刑事か誰かが訪ねてきてもおかしくはない。
光輝はバスルームに入り、急いでシャワーを浴びた。髭をあたり髪を整える。財布を開け、所持金とカードを確認する。鞄からPCを出し、ファンシーズ関連の情報を素早くまとめ、USBメモリーに入力してホテルの封筒に入れた。中に岡部宛のメモも同封した。情報を検察の手に委ねること、石田一族の企みをマスメディアに上手くリークしてほしいとも付け加えた。岡部ならやり遂げられるだろう。PCは迷ったが、バスタブに入れシャワーをかけた。最後にもう一度少女たちの姿を楽しみたかったが、もう時間がなかった。もちろん、無駄な足掻きだとはわかっていた。自宅にはメインコンピュータがあり、うかつにもケイタイも残してきている。調べが入れば、自分の性癖があからさまになるだろう。どちらにしても自分は捕まるのだ。
しかし、今は捕まるわけには行かない。
光輝は何度も頭の中でシミュレーションを繰り返してから、部屋を出た。エレベーターには乗らず、そのまま非常口の緑色のライトを目ざし、すばやく裏階段に体を滑り込ませる。革靴を手に持ち、足音を立てないように階段を下りた。何度か人の気配を感じ、身を潜めた。そのたびに、『瞑想』でいわれた言葉が頭を過ぎった。
(試練なのです)
初めて『瞑想』を訪れたときだった。マリアと名乗る女がいった。
(事を成すにはかならず試練があります。それを乗り越え、無に帰すことができれば、その人にはその事を成す資格があったということです)
光輝には、よくある運命論のように聞こえた。
(川をせき止め、支流を作るようなことはできない。作っても、無理があるのでいつかは土手が崩れるでしょう。すべては大いなる力の導きなのです)
胡散臭いと思いながら、光輝は茶を飲んだ。カモミールの味がした。操もよくこんなハーブティを煎れていると思う。胃に優しいとか、体にいいとか、うっとうしいと思う。遠くで音楽が鳴っていた。真っ白な部屋で、ぼんやりしているうちに再びマリアと呼ばれる女が来て、苦しかったでしょう、と光輝の手を握った。とたんに、ずっとひた隠しにしてきた秘密を話し出していた。
(あなたのような人を待っていたのです)
(あなたが救われるとき、私も救われる。あなたは私、私はあなた)
光輝はそのときのマリアの手の感触を思い出そうとした。話終えるまで握ってくれていたあの温もりに自分は助けられたのだと思う。『瞑想』で学んだ呼吸法を繰り返すうちに手に熱が戻ってくる。
二十五階分の階段を無事に下りたとき、光輝は再び運命の輪が回りはじめたことを悟った。別々の軌道にいたはずの星が、一点に向かって集約し始めている。亜矢、マリア、そして、今はなぜか自分を捨てた母親にも意識が向いていた。
裏門は施錠されていたが、地下まで行き、駐車場に出ると簡単に外に出られた。腕時計は十一時半を過ぎたところだった。そろそろ岡部が現れるころだ。まずフロントで部屋番号を告げるだろう。応答がないので、事情を話し、ホテルのスタッフに部屋の鍵を開けてもらうだろう。そこには岡部宛の封筒があるだけで、岡部は自分が自殺をするのではないかと思うだろう。
それでいい。自分はここで存在を消す。
光輝はゆっくりとホテルを離れると、歩みを速め、獣が川を使って気配を断つように繁華街の喧噪に紛れた。 |
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