亜矢の乗った白いワゴン車の中の窓にはフイルムが貼られていて、中が見えなかった。窓を叩きながら扉に手を滑らせた時、車が走り出す寸前に、引き戸のレバーに真奈美の指が食い込んだ。引っ張ると扉が後に開き始めた。中から誰かが扉を閉めようとしているのがわかったが、真奈美は自分の指の力なのか、それともレバーに指がはまりこんでしまったのか、扉は開いたままで、車は安全装置が働いたのか、スピードを上げることが出来ずにいた。それでも人の歩く速さよりも速く走っているので、真奈美は全力で走らなければならなかった。近くでクラクションが鳴る。クラクションはあちこちの車から鳴らされていて、白いワゴンの運転手に危険を知らせているようだった。人の悲鳴も聞こえた。
ふと、指が抜けなくなっちゃったらどうしようと思った。体は斜めになり、走るのをやめたら、車体の下に巻き込まれてしまうだろうと思えた。もう、言葉も出ず、ただ、口の端から涎だか泡だかわからないものがででいて、それがリボンのように頬の横で揺れていた。車は20メートルも走らずに完全に止まった。止まったとたん、中から腕が伸びて、真奈美の腕をふりほどこうとした。
「いたーあい」
真奈美は叫んだ。自分に向かって人の視線が集まるのを感じて、真奈美はさらに大きな声を上げた。
「助けてえ、いたああああい」
人が走り寄る。車の前からも横からも、人は集まって来て、車は取り囲まれた。
「なにやってんだあ」
誰かが車の中へ向かって怒鳴った。
「友達が連れて行かれるの、変な人たちに連れて行かれるの」
真奈美はやけっぱちになっていた。
「交番へ知らせよう」
だれがそう怒鳴った。
「いやっ」
車の中から亜矢が叫んだ。そのとたんだった。真奈美はものすごい力で車の中へ引きずり込まれた。爪が剥がれるような激痛が走った。扉の閉まる。クラクションを鳴らしながら車は走り出し、やがてスピードを増すと、流れる車の列に滑り込んでしまった。
真奈美は歯の根が会わなかった。亜矢と真奈美の間には女が割り込んで座っていた。この人が私を引きずり込んだのだろうか・・・横目でちらちらと見るが、そんな力があるようには見えない。見えないだけに気持ちが悪い。腕のあちこちに掴まれた感触が残っていて、そこがうずいた。右手の人差し指の爪は半分ほどのところで剥がれて、棘のようにつき立っている。血が丸い玉を作ってデニムのスカートにこぼれた。隣から白い手がスカートに伸びて、薄いきれいなハンカチが血を拭った。指に触れようとするので、真奈美は手を引いた。空気が傷にふれて激痛が走った。いちっ、とつぶやくと、亜矢が横目で真奈美の指を見た。すぐに顔を背けてたが、肩が震えているのを真奈美は見過ごさなかった。 真奈美は人差し指の剥がれかけた爪を思い切って引っ張った。火花か飛ぶほど痛かったが、思いのほか血は出なかった。亜矢はこっちを見ない。痛さだけが広がっていく。真奈美は泣きたかった。亜矢をなんとか振り向かせたかった。人差し指の関節の辺りを握って、思い切り指先へ向かってしごいた。百本もの針が突いたような感じがして、少し遅れて血が流れ出た。まだ、足りない、まだ足りない、真奈美はそう思った。
「亜矢、助けて」
真奈美は人差し指をしごきながらそう言った。
「亜矢、こっちむいてよ。亜矢……」
自分が泣いている声が聞こえた。
「音楽を」
隣の女が運転席に向かっていった。
不思議な音楽だった。メロディーはあるのにリズムがなかった。心地が良くなる。聞いちゃ駄目だという思いが頭の隅をかすめたけれど、真奈美は音が耳の穴から入ってくるのをとめられない。音楽は頭蓋骨の内側を水で満たしていくような気がする。でもまだ、自分が泣いている声が聞こえてもいた。
「亜矢、帰ろうよ」
その言葉は音楽に負けないくらい大きな声で言ったはずなのに、自分の耳には届かなかった。白い手がハンカチで指をくるんでいる。音楽の水は全身に行き渡っていく。ゆっくりと頭を回して見ると、亜矢は窓にもたれて睡り始めていた。この音楽は麻薬だなと思った。きっと麻薬だ……。
「どこかで降ろしなさい」
女はそういっている。私のことだと真奈美は思った。亜矢を連れ戻さなくてはという思いが、ほとんど残っていなかった。
その音がなんであるのか気がつくのに少し時間がかかった。それはポシェットの中からだった。ポシェットは強引に車に引きずり込まれた時にお尻の下に廻っていた。白い手が乱暴に真奈美の体を触ってる。ケイタイを探しているんだと気がついた時、ケイタイの呼び出し音が消えた。ケイタイはまだお尻の下にあった。
「出しなさい」
女の声は威圧的だった。真奈美はケイタイが再び鳴らないことを祈った。取り上げられたくなかった。お尻をもぞもぞしながら、女の側と反対方向へポシェットをずらしてみた。首が痛いと思ったら、女がポシェットの紐を引っ張っている。首を擦る紐が痛い。音楽の中で忘れていた痛いという感覚が戻っていた。
真奈美は左手で女の腿を思い切り捻った。首の痛みが溶けて、その代わり捻っている手の甲が掴まれた。まるで護身術を習っている人のように動きはなめらかで、真奈美の左手はあっという間にねじり上げられた。
ケイタイが鳴った。女が覆い被さるように真奈美の体にのしかかり、腰にあいている方の手を回した。ちょうど真奈美の目の前に白い陶器のような頬があった。
昔犬に顔をかまれたことがあった。路地の犬で繋がれていた。真奈美が近づいても知らん顔をしていた。ウーともワンとも鳴かなかった。真奈美はとことこと歩いて犬の顔に自分の顔を寄せた。その顔に、犬は静かに噛みついたのだった。傷は深くはなかったし、犬は泣き出した真奈美に驚いたようにすぐに口を開けて真奈美から離れた。
真奈美はあがらうのをやめて、白い頬が充分に近づくのを待った。そして噛みついた。頬を狙ったのに、噛みついたのは耳だった。
「ぎゃあ」と女が叫んだ。運転手が振り向いた。
「馬鹿やろう」車は高速道路の路肩に停まった。
運転手が身を乗り出して、真奈美の頭を蒼さえ付けた。それでもどうにもならないと知ったのか、運転席を開けて真奈美の側に周り扉を開けた。真奈美は女とともに転がり落ちそうになった。鼻も口もふさがっていて、息が出来なかったが、それでも噛んだものは離さなかった。口の中に血の味が広がり、吐きそうだった。運転手が真奈美を高速道路の路肩に放り出すにはしばらく時間がかかった。車は真奈美を投げ捨てたあと、走り去っていった。真奈美は車のナンバーを見ようとしたけれど、顔中がぬるぬるとしていて、目を開けることも出来なかった。車が側を走り抜けていくたびに、道路が揺れて、立ち上がるのも恐かった。路肩のフェンスに手が触れた時、初めて自分の口の中に異物があることに気がついた。それは小さなドロップのように円く、きなこ餅のよう柔らかかった。掌に吐き出すと、耳たぶであることがわかった。
路肩にうずくまって嘔吐した。ケイタイが鳴った。
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