その路地は一方通行で、路上駐車の車があれば、後から来た車はその車の退くのを停まって待たざるを得ないくらいの広さで、おまけに夕方になると一斉に道に看板が運び出されて灯が灯るので、ほとんど車は入ってこない。景気のよい頃には、終電過ぎまで店には客がいて、それぞれの店で呼ぶタクシーがこの路地に並んだこともあったが、この頃は、11時をまわるころには、のれんをしまう店もあって、タクシーなどは滅多に通らない。やっと日が落ちた今時分はなおさらであった。
その中を一台のタクシーがのろのろと入ってきて、いったん道に停まった。タクシーの中で、操が運転手に紙切れを見せている。運転手はそれを見て、さらに10メートル車を動かして、メーターを戻した。まず、そろえた両足が地面に着地して、身をかがめてタクシーを降りた姿はきちっと化粧が直されていて、デパートの紙袋とフェラガモのバッグを握って立つ操の姿は場違いに見えた。
操は「蜂」の前でしばらく立っていた。まだ暖簾は出ていなかった。
「いらっしゃい」
引き戸が開いた音に、手元におとしていた視線を上げた真奈美の母親久恵は、そこになんとなく見覚えのある顔を見つけて、きょとんとなった。
「あの、おぼえていらっしゃるでしょうか。真奈美さんと小学校のときに同級だった三枝亜矢の母親です。娘が仲良くして頂いてありがとうございます」
深々と頭を下げる操の姿を見ていた。
「ああ、亜矢ちゃんのお母さん。私、奥さんのこと、そのお辞儀で思い出しました。PTAの役員をしていたでしょ。ええと、書記でしたっけ?」
「いいえ、会計です」
「あー、まあ、どっちでもいいけど。卒業式の時、目立っていたから、そのお辞儀で」
「えっ」
「ほら、PTAの役員って壇上に並ぶでしょ。それで、何回もお辞儀するじゃないの。奥さんのお辞儀、なんかすごく深々としていてびっくりしちゃった」
「へんだった・・・でしょうか」
「あはははは、違う違う、へんじゃないけど、丁寧で。まあ、お座りなさい。お待ち合わせ?」
「いえ」
操は久恵の顔から視線をそらせた。そして、自分の足下から順に視線を動かして、店の中を眺めている。店にはカウンターのほかに、3つのテーブルと、小上がりの4畳ほどの座敷があった。
「じゃ、カウンターでいい? まだ、30分はお客が来ないから。で、なんのご用?」
カウンター越しに久恵は手を伸ばして、操の前にお茶を出した。操は慌てて、手みやげの菓子箱を出した。
「ありがと。頂き物までして悪いけど、一寸仕事しながら聞くわね」
久恵は火にかけてあるアルマイトの大鍋の蓋を取り、長い箸でかき回し始めた。ひじきを煮ている匂いが広がる。
「奥さん、ビールでも飲みますか」
お茶に手を付けていない操の様子を見て、久恵が言う。
「いえ、あっ、いただきます」
言い終えた時には、すぐにコップが差し出されて、ビールが注がれそうになる。両の手でコップを持ち上げた操は、久恵の手を見た。その手をしげしげと見る。
「いやね、すごいシミとかあるでしょ。ごつごつだし、爪だって手入れなんかしてないし。奥さんの手と大違い。でも、こういう手も案外お客には評判は悪くないのよ。でも、不思議なのは、髪は駄目なの。きれいに結ってもらうのがいいのね。どういう訳かしらね、一寸でも手を抜くと、気合いが足りないんじゃないって、お客に言われちゃうのね。まあ、お客と言っても、酔っぱらいだから。でも、酔っぱらいって、なんか正直でしょ。腹に一物なんてことはなくなっちゃって、言いたい放題」
操はコップに口を付けた。久恵がカウンターから出て、壁に張り出した板に乗せてあるテレビのスイッチを入れた。椅子に乗らなくては手の届かないところにあったので、よいしょ、どっこいしょと小さな声を上げ、椅子に乗って降りた。
「ニュースぐらいは見ないとね。新聞取っていないから」
「ああ、そうなんですか・・・」
操の額に縦皺がよる。大鍋から小さな小鉢に移されたひじきが操の前に置かれた。
「なんか、用なんでしょ。言いにくかったら、飲めば」
そう言うと、久恵はカウンターの下にしゃがみ込んで何かし始めた。操はおあるようにビールを口に流し込んだ。
「お願いがあって・・・」
操がそう言った時、久恵が立ち上がり、空のコップを見た。継ぎ足すと、操は半分ほど、一気に飲んだ。
「亜矢のことなんですけど。亜矢は真奈美ちゃんのことを慕っていて・・・」
また、飲んだ。コップは空になった。久恵が注ぐ。操が飲んだ。
「亜矢は今、むずかしい年頃で、私は何がなんだかわからなくて。ここの所、いろいろあって・・・。亜矢はどうも精神的に不安定なんです」
「まあ、あの年頃はこどもおとなだから。自分でももてあましているんじゃないの」
「そうでしょうが・・・亜矢は、亜矢の場合は口をきこうとしないんです」
「口なんかきかないわよ、うちも。でも、どうしても何か言いたいことだけ勝手に言ってるぐらい」
「いえ、そうじゃなくて、口が・・・どうも声が出ないらしい。それで、家には帰りたくないと。真奈美ちゃんのところに行きたいというのです。友達ってそんなにいいんですね。なんだか、私に力がなくて、情けないんですけれど」
「へえー、そんなことってあるのね。もう、長いの、そうなってから」
「えっ」
「いつからなの? 病院はどこに行っているの。うちのお客で、大学病院の部長をしている人がいるから、外科だけど、なんならその病院に紹介してもらおうか。評判はいいよ」
「あっ、いいんです。それはちゃんとしますから」
「しますって、奥さん。病院へは行っているんでしょ。生意気とか、口きかないとかいうのと、違うんじゃないの、それって」
操は今度はお茶を手にした。一口で飲み干した。
「そうかも知れませんが、今はやることがあって、とりあえず先にやることがあって・・・」
久恵はコップにお水を入れて差し出した。
「すみませんが、亜矢をしばらく預かって頂けないでしょうか。もう、真奈美ちゃんに助けて頂くしかないんです」
「あのさ、それは無理。第一、真奈美には亜矢ちゃんは助けられない。なにをして、助けるというのさ。悪いこと言わないから、病院へ連れて行きなさいよ。それが一番最初にすることでしょ。奥さんのとりこみごとは、その後でいいんじゃないの。旦那さんのこと? まあ、だいたいそんなことだろうけど。旦那さんは取り替えが利くし、いなくたって・・・まあ、なんとかなるけど、娘の体や心は取り返しがつかないよ。病人が一番じゃないの」
操は大きく頭を振った。
「でも、亜矢にとっては取り替えが利かないんです」
ふうっと、久恵が息を吐いた。割烹着のポケットから、煙草を出して火を付けた。
「奥さん、すごく困っているらしいことはわかるけれど、そういう時に、人を頼るのはよくないよ。まして、真奈美みたいなガキにほんとうに頼るつもりなの。お子さんが頼りたいのは、母親なんじゃないの? それが頼れないから、真奈美にっていうわけじゃないの」
「お願いします、当面の生活費も用意しました」
カウンターに白い封筒が置かれた。カウンターに頭を下げた操の額がぶつかる音がした。
「悪いけど、私も真奈美の母親だから、はっきり言う。真奈美はそう言うことが出来るほどおとなじゃない。共倒れになる。それに、私は人の子どもの面倒を見る気はないし」
「でも、真奈美ちゃんは、助けてくれるって言ってくれました。亜矢を助けてくれるって」
その時、5時を知らせる柱時計が鳴った。久恵はリモコンを手にして、テレビの音を大きくした。ニュースが始まった。
「あのね、真奈美がどう言おうが、何を考えようが、駄目なものは駄目なの」
久恵は煙草をもみ消した。
「お願いします、あの子を預けるところがほかに思い当たらないんです。家を出て行ったって・・・行く所なんか・・・」
「じゃあ、ほっときなさい。死ななければ帰ってくるし、帰りたくなければ帰らないでしょ。いつか帰ってくるから」
「死ぬって・・・・」
「大丈夫、死なない、そう思っているんでしょ、だから、人に預けられるんでしょ。病院へも連れて行かずにすませられるんでしょ」
「そんな・・・」
久恵は煙草に再び火を付け、深く吸い込んだ。煙を吐き出しながら、しゃべった。
「こういう商売をしていて、おもしろいと思うのは、それぞれが時間になると帰っていくんだけれどさ。私は店をしまいながら、いつもおかしいくなるのね。さんざん女房の悪口や家庭の愚痴とか言うじゃない、なのにさっさと帰っていく。そんなに嫌なら帰らなければいいじゃないのとか、最初は思ったのね。でも、男だと思うからそうなんだけれど、動物だと思ってみたら、ほら、動物って巣に帰るでしょ。ああいう感じなんだって。安全な巣に帰って行くんじゃないかって。家庭だと思うと、なんか高級な感じじゃない。でも、そんなもんじゃなくて、巣なんだ。だから、たとえ独り者でも、誰も待っていなくとも、巣には帰っていく。そこしか安全に寝られないからね。その巣が、安全じゃないとしたら、もっといい巣を見つけたとしたら、もう帰っちゃ行かないわよ。逆に言えばさあ、一歩外へ出て行ったものが、かならず帰ってくるとは限らないということよね」
「安全じゃない・・・。でも、人間は動物と違うわ。家庭って・・・もっと・・・」
ふたりは黙ってしまった。
テレビの音が大きくなった。アナウンサーが次々とニュースを読み上げていた。
突然、操の顔が引きつった。そして、テレビへ体を向けて立ち上がった。テレビの画面には大きなビルが映し出されていた。
「国内市場第二位の化粧品の大手メーカー『ファンシーズ』は、不正経理問題で東京地検ならびに証券取引等監視委員会より告発されました」
画面には「ファンシーズ」の本社ビルが映し出されていた。白いビルは傾いで見えるアングルで映されていて、社名の「ファンシーズ」の文字が大写しになる。そこには光輝のデザインした会社のシンボルマークの鳥があった。
「あ!」
操は悲鳴を上げた。
店の入り口が開いた。ふたりづれの男が入ってきた。
「ママ、まだ暖簾出てないよお」
久恵は操を見ていた。操は男たちの声に飛び上がるほど驚き、ハンドバッグを手にするとまだ締め切っていない入り口を体でこじ開けるようにして、外へ飛び出していった。カウンターの上には白い封筒が残されていた。
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