捨てた筈の真奈美の下着が屑籠の中に無い、というだけのことに、どうしてこんなに動転するのだろう。操はあわただしく身体を一回転させてぐるりと部屋を見回す。それから殆ど無意識に廊下へ飛び出し、階段を駆け上がる。
二階へ上がったその勢いで寝室のドアを開け、中を見回し、境のカーテンを引き開けて夫の書斎をのぞき込む。書斎のデスクの隅で小さな明かりが点滅しているのが目にとまった瞬間、操は急に我に返った。――私はなにをしてるの! いったいなにを考えてるの!
……そうだ、私は亜矢の部屋を覗こうと思ったんだ――操はとっさに自分で自分に言い訳をする。そんな言い訳を正当化するために、操は急いでカーテンを閉め、寝室から出て、隣の亜矢の部屋のドアのノブに手を掛ける。しかしドアはロックされていた。
――きっと亜矢が拾ってしまい込んだんだろう――操は自分に言い聞かせる。あとであの子に返すつもりなんでしょう。
操はゆっくり階段を下り、階下の濡れ縁に出て、垣根の向こうを窺う。そこでは文也とかいう男が困り切った風情でそわそわ足踏みしたり身体の向きを変えたりして待っている。黙って帰ってしまったかと操は思っていたのだが、意外と律儀な性格らしい。
引き返してきた操に気付き振り向いた文也に、濡れ縁から、
「ちょっと入ってきて下さい」有無を言わせぬ口調で操は声を掛ける。文也はびくっとしたが、いかにもしぶしぶといった様子で門の方へ回り、そこから形ばかりの庭木戸を押し開けて庭へ入ってきた。
操はダイニングの椅子の一つからクッションを取ってきて濡れ縁に置き、
「いま冷たいもんでも持って来ますから……」そこへ座れ、と仕草で示す。そしてそんな自分になんだか呆れている。どうもさっきから私は調子が狂っている。文也は不安そうに濡れ縁に浅く腰を掛ける。
スポーツ飲料のボトルを冷蔵庫から出して二つのコップに注ぎ、トレーに載せて濡れ縁に置く。自分は部屋の床の敷居際に直接座り込んで、操は、文也がぺこりと頭を下げてうやうやしげにコップを取り上げるのを待ってから、
「……見つからないんですよ。きっと娘が保管してるんだと思います。あとで真奈美さんのお宅にお届けします、宅配便で」
「はあ、どうもお手数を掛けてしまいまして。あの子に代わってお詫びします」
またぺこりと頭を下げる文也を眺めながらちょっと考えてから、
「……どうせ、すぐに真奈美さんの口からいきさつはお耳に入ると思いますから、隠しても無駄ですからね……」
操は昨夜の出来事をかいつまんで文也に話して聞かせる。ただ、真奈美が夫に出てこいと怒鳴ったことや、真奈美の頬を自分が打ったことや、いつの間にか夫が家を抜け出していたことなどは割愛した。
「……いえ、私どももね、ちょっと信じられなかったものですからね……そうしたら、いきなり真奈美さんが、その……下着を脱いで、置いて帰ってしまわれたんですよ」
「は?」
文也は目を丸くして、
「……それ、どういう意味なんでしょう?」
「私のほうが伺いたいわ、そんなこと」
操は不機嫌になる。
「まあ、なにしろとっぴょうしもない子ですからねー。判りませんねー、あの年頃の子は」
あははと文也は笑ってみせる。そんな他意なさそうな表情を見ているうちに、思わず、するりと操の口から、
「どう思われます?」という言葉が出た。
「どう、って何がです?」
「本当でしょうか?」
文也はまずコップの残りをゆっくり飲み干してから、
「……どっちだっていいじゃありませんか。そんなこと」と言い放つ。
「べつに触られたからって減るもんじゃなし」
「その言い方はないんじゃありません?」
操はむっとする。
「それは女性に対して無理解すぎる、無神経な、男の身勝手ですよ。女性の身になってみたら、どんなに心が傷つけられて、精神的な損害を受けることか。まだうら若い年頃なら、なおさら……」
「すみません」
文也はあわてて頭を下げる。
「……でも、これ、ちょっとへんな会話じゃないんですかね。ホントだったら、オレがあの子の肩を持って、奥さんがチカンの肩持たなきゃいけないんじゃないかな」
あら、いけない、と操は一瞬思い、それから急に我に返って、
「どうして私がチカンの肩を持たなきゃいけないんですか」
と一層気色ばむ。
「ですから、そのう……」
文也は怯んで、
「ご主人がチカンをしようがしまいが、たいした違いはないんじゃないか、ってことで……だいたい男は、みんな毎日、目でチカンしてるんですから。目と手じゃ、そんなに違いはないんじゃないですかね」
操は絶句してしばらく相手の顔を見ている。
「……男の人って、そういうものなんですか? 知らなかったわ。それ、誰でもそうなんですか? 」
「誰でもそうです」
文也はいやに堂々と言い切り、
「……たとえお宅の御主人でもそうです」
「そう?」
操はショックを受けて考え込む。
それにしても、この男への自分の態度は、どうにもいつもの自分らしくない。いわばトラブル相手の真奈美側の人間に、なんで私はこんな立ち入った問答を仕掛けているのだろう。この文也という男には、なんだか女の気を許させてしまうようなところがある。
操はふと、小学校時代の近所の男の子を思い出してしまう。色白で髪の長かったその頃の彼女はけっこう男の子たちの憧れの的だったらしい。一つ年下のおとなしいその子は、いつもなんとなく彼女に付きまとい、クッツキ虫などと馬鹿にされながらニコニコしていた。彼女は女王さまのように彼に対して命令したり叱ったりしたものだ。この文也にも、そんな、なんとなく操に見とれているような雰囲気があって、操はけっこうそういう視線には敏感なのである。そういえば文也は、どこかしら、子供の頃にしか見られないような、あの無分別な自由さみたいな雰囲気を身にまとっている。
「……ところで」
操はふと思い付き、
「あなたもチカンなさったこと、おありになるの?」
「ムッ……」
文也は言葉に詰まり、
「それは、まあ、なんというか、オレは、オレなりに、その……」
「おありになるのね?」
重ねて問いつめられて、文也は、
「……あります」
蚊の鳴くような声で呟く。それから、急いで付け加える。
「でも、計画的なもんじゃなかったんですよ」
「計画的でなければいいんですか?」
「いえいえ、良い悪いじゃなくって……やっぱり、二つの場合は違うんじゃないかと思うワケで……例えばオレの場合は……」
文也はしどろもどろになって告白する。――例えば立ち見の出ているようなヒット映画の一場面の、豊満な年増のベリーダンサーのエロチックな踊りを見ているうちに、気が付いたらすぐ前に立っている女の臀部に夢中になって自分の下腹部をすりつけていた、とか、満員電車で片手が自分の腰と隣の女の尻との間に挟まってしまい、そのうち手の甲への微妙な感触がえもいわれぬものになってきて、電車の振動にこと寄せて、素知らぬふりで微調整を行っているうちに、停車駅を乗り過ごしてしまった、とか。
「……でもね、オレの場合は、だからって込んだ映画を選んで入ったり、満員電車を乗り継いだりするわけじゃないんですよね。たまたまそんなシチュエーションに出会ったとき、毅然としてそれを退ける、っていうようなもったいないことはしなかったというだけの話でね」
「いやらしい人ですね、あなたって」
操は眉を顰める。文也はしょげかえって、
「ですからね、オレが言いたかったのは、オレみたいなチカンだったら、そんなシチュエーションに遭ったら誰だって一時的になっちゃうんだから、なんにも特別なところはなくって……そりゃ、まあ、よくないことには違いないけど、いわば交通事故みたいなもんで、お宅のご主人とあの子とが交通事故に遭ったと思えばいいんじゃないか、ってことなんですよ」
「そういう考え方は、ぜったい間違いです。女性に対する最高の侮辱です!」
そう言い切りながら、その自分の声がどこか明るいのを、もう一人の操は感じている。……もしかしたら、彼女が彼から無意識に期待していたのが、そんな言葉だったのかも知れない。
文也が去ってからも、しばらく操は草むしりを再開せずにそのまま濡れ縁に腰を掛けてぼんやりしていた。路地に面した南向きの庭先には、もうだいぶ高くなった夏の太陽からの陽射しがまともに照りつけ始め、じっとしていても剥き出しの腕の辺りには、じわりと汗が滲みだしてくる。
今まで操は、男のセックスなんてあまりまともに考えたことがなかったような気がする。別に嫌いではないけれど、それは結婚生活に付き物のセレモニーみたいなもの、といった程度の思いだった。抱かれればいかにも愛され執着されているというな気がして嬉しかった。でも、快感ということになると、なんだか独身時代に独りで行った自慰のほうが快かったような気さえしてくる。でも、いままでは、別にそれで不便を感じていたわけではなかった。夫さえ良ければ、自分はそれで構わないような気がしていた。ひょっとして私は夫に充分な喜びを与えていなかったのだろうか? でも、それならいったいどうしたらよかったのだろう?
……ゆうべ、夫は二階を抜け出して、いったいどこへ行っていたんだろう。――またもやそんな堂々巡りの思いに落ち込んでいた操は、なぜかその時になって、ふっと思い出した。さっき夫の書斎で点滅していたのは?
そうだ、あれは充電器に装着したまま置き忘れられてあった夫のケイタイの、着信シグナルだわ。あのときちゃんと目に入っていたのに、いままでそれが何だったのかまったく意識に浮かばなかった。
操は濡れ縁から部屋に上がり、急ぎ足で二階の書斎に上がって行く。
デスクの端では依然として青い小さな明かりが点滅している。きちょうめんな夫らしくデスクの上は他には何も置かれていない。ノートパソコンはアタッシュケースに納めて夫が携行したのだろう。父娘揃ってよくケイタイを忘れるわね――呟きながら操は、充電器からケイタイをむしり取るようにして、開いてみる。着信履歴を打ち出してみると、四つばかり並んでいる着信が、いずれも操も知っている夫の勤務先の直属の部下からのものだ。
操が首を傾げたのは、その着信時刻がみんな、もう当然夫がとっくに勤務先に着いていなければならない時刻を表示していたからだった。
おかしいわねえ……彼女は思い返してみる。今日夫が家を出たのはいつもと変わりのない時刻だった。
ケイタイへはメールも入っていたが、それも発信元は同じ部下だった。操はその一つをつい反射的に開封してから、しまった、と首を竦める。勝手に開封済みにしたら後で夫が気を悪くするかも知れない。でも、もう手遅れだ。
「イエデンは留守電、社ケイタイはブロックだと、秘書課から問い合わせがあり、私ケイタイにお掛けして申しわけありませんが、今日は欠勤ですか? それともアクシデントでも?」
操は思わず戸口を振り返る。そうだった、いつも庭仕事の時間はイエデンを留守電にする習慣を今日も無意識に守っていた。そんな時間帯は大抵くだらぬセールス電話ばかりだったし、家族同士の連絡はケイタイ専用だった。夏場は熱気が入らないようにサッシを密閉するので、呼び出し音は庭にまでは届かない。
会社へ顔も出さずに夫は今どこへ行っているのか? 操の胸は俄に騒ぎはじめる。あれこれ慌ただしく思い巡らしている操の視線が、ふと自分が手に持つケイタイに停まる。
ケイタイからなにかヒントは見つからないものか? しかし、これ以上メールを開封するのも躊躇われる。思いあぐねてあれこれいじくったあげく、操はふとカメラ機能付きケイタイのフォトデータ一覧画面を出し、何げなく最近のデータから順に呼び出し始めた。
最初のフォトは、一見しただけでは何だか判らなかった。薄暗い画面に縦に太い柱のような物が二つ接して並び、その下の方に白い円いぼんやりしたものが両方の柱の端を纏めて覆っている。
操は首を傾げながら、次々に画面を呼び出してみるが、みな大体同じような形ばかりだ。彼女は何度も出し直してはためつすがめつして見比べてみたが、何だかさっぱり判らない。
最後に試しに画面を逆さにひっくり返して見た時、操には突然それが何だか判った。上端の白くて丸みを帯びたものは下着のパンツで、その下の太い二本の柱は太腿だ。
|