| ニキ・ド・サン・ファールについて知っていることは、あまりに少なかった。それでも、那須に「ニキ美術館」を訪ねるちいさな旅が同人カプリチオによって企画されたのを知って、ぜひ参加したいと思い、その場で申し込みをしたのは、今思えば不思議な気がしてならない。
このちいさな旅は、驚きの連続だった。そして、その驚きはすべて歓びとセットになっていた。こうしてエッセイを書くということも、そのひとつなのだけれど。そのうえ、同人カプリチオにも入ってしまうし、入ったそうそう次号のお約束もしてしまうし。しかし、どこか成り行き任せでありそうで実はそうでなく、なにかに導かれてくるべきところにたどり着いている、という感じがしている。それは、同人カプリチオに対してと、「ニキ美術館」に対しての二重の意味合いがあって、私の驚きと歓びは大きかったのだろうと思う。
ニキ・ド・サン・ファールの作品について、私は彫刻の森美術館にある「ミス・ブラック・レディ」しか知らなかった。「ミス・ブラック・レディ」は1968年制作で、私が見たのは1982、3年頃だったと思う。500.0×230.0×75.0の大物であった。見たことのある人ならば、たいていは忘れられないだろう。太った大きな女の立ち像。右手に水玉模様のハンドバックを持っている。ブラック・パワーとウーマン・パワーのダブルで、くらくらしたのだったけれど、手先や頭部のあまりにも省略された様子にびっくりしたのを憶えている。体デカイ、あとは省略という感じが、なんとも言いようのない元気を感じさせた。
そうだよ、体だよ。女だって、デッカイ体を必要としているし、あこがれているんだ。小さくて、かわいくて、なよなよして、しなやかな体は、抱いたり、撫でたり、小脇に抱えたりするのにはいいかも知れないけど、おあいにく様、そうはいかないぜ。と言ったら、一緒に見に行った女友だちが大声で笑った。
少し横道にそれるけれど、その時代よりもさらにずっと前から、私には心に住まわせる3人の魔女とひとりの清々しい女性画家がいた。3人の魔女と言っても3人とも女ではなく、イメージは魔女なのだけれど、女ではないので、こういうのを錬金術師というのかも知れない。
走りながら読めといったのは寺山修司だった。走りながら書いて、書きながら考えて、考えながら走っているうちに死んでしまった詩人は、いつでも私の心に住んでいる。あとふたり、東北出身の作家で心に住んでいる人がいる。太宰治と宮沢賢治だ。私は密かに、3人山師と呼んでいる。夢ばかり見て地獄を生きたような人たちで、錬金術師。または、魔女、男だけど。
いつしか、こんな魔女たちに心が乗っ取られたようになったけれど、片隅に、清らかなものもすんでいる。オキーフ。ジョージア・オキーフ。彼女の描く花の絵がまるで女性性器のようなんだと、女友達が教えてくれたのは何十年前か。その頃、やりとりする手紙はオキーフの花のポストカードが多かった。女同士の暗号のように、やり取りしたオキーフの絵。やがて、オキーフの描く砂漠に埋もれた骨の絵に心を奪われた。骨だけとなった白い骨盤の間だから見上げた空の絵。なにかが、終わったような気がした。誰もオキーフの絵のポストカードを送ってくれなくなり、私も送らなくなった。アメリカは凄い不興で、日本もバブルがはじけていた。1980年代のおわりの頃。
しかし、オキーフのあと、私は誰とも出会っていない気がする。あの当時、暗号となったオキーフは、美しい花を体の中心に持っているんだよ女はね、と言っているようだった。その花は男によって咲くのでなく、自分が咲こうと思ったから咲いたのだと思えた。群れずとも立ち、勝手に咲いたりする。そんな、女性という性を肯定できるいい感じのメッセージだった。どろどろしたものも暗さもなく、乾いた感じは、現実の生活の葛藤や、押しつけられる女としてのイメージの洪水の中でアップアップしている身としては、さわやかだった。自立した女の生き方とか、依存しないで生きる女とかいう言葉が頭上を行き来していた。ぐずぐず言うなよ、これが精一杯だよ。そうわめきたかったから、オキーフの静かさは有難かった。オキーフが静であるとすれば、ニキ・ド・サン・ファールは動であった。
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| ニキ美術館 |
貸し切りのバスが「ニキ美術館」へ着いたのは、5月26日(土)の午後1時頃だった。
「ニキ美術館」があるのは那須なのだけれど、その辺りは観光地でオルゴール博物館とかお菓子博物館とか、博物館という名の付くものがたくさんあって、やや通俗的な慰安の場所でもあった。ぞろぞろと人が歩き回り、にぎやかな感じさえした。しかし、「ニキ美術館」の辺りになると静かになった。車止めには観光客の車はなかった。
「ニキ美術館」の入り口から建物の入り口までは日本庭園になっている。樹木のあいだの小道を通って進む。そこは、落ちつきと静けさに満ちていて、さっき見た観光地の風景とは大違いだった。大きなホオノキが幾本もあったり、新緑の柔らかさを残した落葉樹が重なるように枝を茂らせ、葉っぱは厚ぼったい雲を通ってきた薄い光の中でも輝いて見えた。きれいね、と誰かが言って、皆口々にきれいだねと言った。そして、それらの中に突然、あの「ミス・ブラック・レディ」のように作品が現れはしまいかと、少し身構えながら建物へ向かう。その必要はなかった。小道の突き当たりに、緑の海に沈んだように静かなたたずまいの「ニキ美術館」はあった。
あとで知ったのだが、この建物は「ニキ美術館」館長の増田静江氏の夫で「パルコ」創業者の増田通二氏が、プランニングディレクターとして建築プランに参加し、「ニキ美術館」は第22回建築作品コンクールで東京建築賞を受賞している。
入り口にカメラによる撮影の申し込み案内があった。訊けば撮影の申し込みをすれば、館内の作品や風景は自由に撮影できるとのこと。なんだか、とてもうれしかった。すぐ、申し込みをしながら、インターネットで紹介することは出来ないかと思った、もちろんこのホームページ上である。申込用紙の横にちいさな手作りのチラシがあって、「ニキ美術館」のホームページの案内が書かれていた。その手作り感に親近感を持った。作品を見終えたら、勇気を奮って相談してみようと思った。
オープンであることと、ざっくばらんであることは、権威的でないことだ。これは「ニキ・ド・サン・ファール」ではなく「ニキ美術館」の姿勢なのだろうけれども、あの「ミス・ブラック・レディ」を思い出して、ぞくぞくと鳥肌が立った。突然、「ニキ・ド・サン・ファール」と「ニキ美術館」と「私」がトライアングルになって、立っている気がした。パンフレットを受け取る。「ニキ美術館」の館長、増田静江氏のことが気になりだした。この人が、このオープンな「ニキ美術館」なんだと思ったからだ。「ニキ・ド・サン・ファール」の作品を集めることと、こんな風に「ニキ美術館」を作り、運営していくことは別のことに違いなかった。
私は親切にされていて、大事に扱われて、ここにいる。と、思えた。だから、私も無防備だったと言える。それは、オープンな気持ちで、開けっ広げで構えたり取り繕ったりしていない状態だった。そんな気持ちで、「ニキ・ド・サン・ファール」と衝撃の対面をする羽目になった。
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| 「黒い女神」 |
入り口の長い廊下を行くと、正面に「黒い女神」という題名のかわいい像があった。あとで調べるとなんと河馬とのこと。黒色の垂れた乳房がいい案配で、赤いマニキュアとペティキュアがキュート。水玉模様の下半身もいいけれど、歯がいろいろな色でかわいい。頭の上のランプが「自ら発光している」という感じで、口を開いたら「今は孤独だけど、ちっとも寂しくないの。百人も産んで、千人も育てたから」とでも言いそうだった。「黒い女神」はいろんな色の歯をむき出して、笑っているようにもイーをしているようにも見える顔で、私たちを迎えた。この時、私は笑っていたと思う。
そして、「タロット・ガーデン」と、その中にたたずむ豆のようにちいさなニキ・ド・サン・ファールの写真がかけられた部屋に続く。トスカーナに建設中の彫刻公園「タロット・ガーデン」は森に見えた。そこに生えているキノコのようなものが作品群だった。その中に一際大きくそびえる作品「女帝」の中に住居空間を設けて、そこに移り住みつつ、制作を続けているのだと知る。
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| ニキの作ったニキ美術館 |
その部屋には、「ニキ美術館」を建てるならばと、ニキ・ド・サン・ファール自身が作った美術館のミニチュアが展示してあった。現在建っている建物とはあまりにも趣が違っていて、驚く。国立公園の中ということで、規制があって建てられなかったというものの、これが建っていたらさぞや腰を抜かす人が出るだろうと思える、金ぴかの富士山(どうしてもそうとしか見えない三角の山)に、三つ目がついたお茶目なもの。
ニキ・ド・サン・ファールのモデル時代の写真も展示されていて、あまりの美貌に唖然となる。なんとなくだけど、美貌というのは苦しみが多いだろうと思う。もし美貌でなかったら、もし金持ちでなかったら、と美貌で金持ちの人は自分が愛されることを疑うとしたならば、美貌であることや裕福であることは、そのまま、コンプレクスになる。なにか、息苦しくなるような美貌だった。顔を丁寧に作らないのはそんなわけかも知れないなあ、と少し思う。この部屋は資料展示というか、ウォーミングアップの部屋だった。だんだんと、ニキ・ド・サン・ファールに近づいてゆくという高揚した気分になった。私は真っ赤な顔をしていたと思う、たいていそういうときはそうなるから。
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| 「仏陀」 |
次の部屋は、窓がなかった(そんな気がしているけど・・・)。入ると右手奥に「仏陀」という、その作品があった。二年前に来日した際に、京都で見た仏像に感銘を受けて制作した作品というから、新作である。
色ガラスやタイルを貼って作られた仏像は、サイケデリックな色使い。後ろは穴が開いていて、そこに座って座禅を組めそうな大きさ。一つ目なのが不思議。こればかりは、広いところで見たいと思った。広い地べたの上とか。滝壺の前がベストポジションと見たが・・・。 一つ目だと思ったら、口の辺りに口のようにあるのも目だと気づく。さらに、おへその場所にもうひとつあった。やはり、三つ目だった。縦に並んだ三つ目にどんな意味があり、なにを暗示しているのかじっと見つめると、三つの目は負けじとこちらを見る。数で負けるし、大きさでも勝てなかった。ここまでの作品はポップだった。楽しく、お茶目で、かわいいとも言えた。エネルギッシュではあったけれど、破壊の臭いはみじんもなかった。
それは突然に現れた。私が感じたものは、例えれば、夜道で出くわした死神のように絶対的な恐怖。そこに繰り広げられた物語は、骨の髄も凍らせ、心臓も縮こまって血を送ることさえためらうような、暴力と破壊の世界だった。
誰がなんのために、どうやって、ニキ・ド・サン・ファールをこんなにも痛めつけたのだろうか。その仕返しとしか思えない所行が、「シューティング・ペインティング(射撃絵画)」として、そこに列んでいた。ライフルで撃ち抜かれた作品と列んで、ニキ・ド・サン・ファールが射撃絵画をパフォーマンスしている写真があった。鳥肌が立つような美貌であった。
作品にはあらかじめ、絵の具やペンキが入れられた袋や缶が塗り混まれている。それを、ライフルで撃つのだ。作品は、弾丸に打ち抜かれて血を流しているように見えた。多分、本物と同じように飛び散ったであろうペンキや絵の具が、穴の開いたキャンパスから流れ出ていた。それは、人殺しのシュミレーションに見えた。ならば、ニキ・ド・サン・ファールが、繰り返し殺したのは誰か。
息を出し入れする音が響いた。私のだけでなく、この作品の前に立ち止まった人は、皆同じような喉を擦る風のような音で息をしていた。ちょっと吐きそうだった。
恐ろしげな作品はまだまだ続いた。しかし、恐ろしい意味合いが少しずつ変化もしていく。
「赤い魔女」は恐ろしいが、射撃絵画とは感じが違っていた。生でなくなっている。怒りの対象が変わったのだろうか。そこには、追いつめられて爆発する怒りではなく、構築された怒り、あるいは順序立てて見通せた末の怒り、または怒りの根元に迫る視線を手に入れた後に表現された怒り、のような雰囲気があった。新たな創作の方向を模索する土台が出来上がりつつあったのかも知れない。その後、ニキ・ド・サン・ファールは、希望と活力とやさしさを太陽の光のように放射する、あのナナシリーズを制作するのだから。
しかし、射撃絵画や「赤い魔女」を見て、私はいっぺんで脱力してしまい、さっきまでのポップなニキ・ド・サン・ファールが懐かしかった。わずか数十メートルしか離れていないのに、すごく遠いところへ運ばれたような気持ちだった。振り返ると、明るい景色があった。そして、大きな女がいた。一生懸命歩いて、「ビッグレディ」の前にたどり着くと、不思議な懐かしさでいっぱいになる。窓からは緑が見え、曇天の太陽の光は薄かったけれど、それでもそこは充分に明るかった。建物の外と内を仕切るガラスが消えて、弾けたような躍動する色彩と、自由な形、たっぷりとした大きさの彫刻たちが、大空の下に飛び出していくような開放感があった。
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| ナナたち |
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| 蛇たちの椅子 |
たくさんのナナがいて、蛇がいて、鳥がいて、男もいた。逆立ちしたり、テレビを乗っけていたり、蜘蛛を連れて散歩をしたり、ダンスを踊ったりしていたが、どれも朗らかで人に危害を加えたり、加えられたりして傷ついたり、怒ったりしてはいなかった。誰かが時間を止めてしまったので、ここにいるのだけれど、本当は命があって動き回っている途中なのかも知れない。それとも、魔法にかけられて昼間は動けないのかも。彫刻たちは、立ち止まっているようだった。
「ビッグレディ」や、彫刻の森美術館で見た「ミス・ブラック・レディ」は黒人の女性であった。しかし、ここには白いナナもいる。「白い踊るナナ」はその題名通り白人であった。なぜだか、ちょっと驚く。そして気づいたのだけれど、黄色いナナはまだ作られていないのではないか。いつの日か、「笑う黄色いナナ」とか作ってはくれまいか。別にこだわるわけではないけれど・・・。
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| 「日曜日の散歩」 |
最後の部屋は、かわいかった。「ニキ美術館」て゛最初に迎えてくれた「黒い女神」を含むエジプトシリーズと言ったらいいのだろうか。河馬の女神「トエリス」と、犬神「アヌビス」、鳥神「ホルス」がモチーフ。ナナから受けた、大きいという感じは消えている。大きさではなく、豊潤というイメージがさりげなく提示された作品群。神話の世界。開け放たれた空間で見るよりは、暗い小部屋で出会いたい。出来れば、穴蔵で。トエリスの頭のランプに照らされて浮かび上がる黄金の「アヌビスの椅子」に座れば、どんな心地になるかと想像する。誰か、座ったのだろうか、あの「アヌビスの椅子」に。出来るものなら、一度、座ってみたいという願望がぷつぷつと湧く。その音が自分で聞こえる。せめて、触ってみたいと熱い誘惑にかられる。目を閉じると、アヌビスを担いで逃げる自分の姿が目に浮かんだ。
一巡りした私たちを待ち受けていたのは、思いも掛けない方だった。カプリチオの本文のカットを描いていらっしゃる高柳有希氏であった。なんと、お連れ合いの方が「ニキ美術館」にお勤めとか。私がカプリチオでいちばん好きなものが高柳氏のカットと言ったら叱られるかも知れないけれど、高柳氏のカットは、本当のところ「すっごくいいの」の一言につきる。でも、それじゃあ紹介にならないので細かく言うと、まず、かわいい。ただかわいいだけではない、ユーモアがある。そのうえ、ウィットに富んでいて、たまにエスプリの香りがする。さらに、元気になる。私の言い方で言うと「おげんこになる」カットなのだ。その方が、「ニキ美術館」にいると、さもありなんという感じがした。「ニキ・ド・サン・ファール」と「ニキ美術館」、そして高柳氏。なんだか、すっごいじゃないか、できすぎじゃあないか。私は、ますます舞い上がった。
高柳氏が若いお母さんだとは驚きだった。そう言えば、カットは肉体的で、絵空事でない迫力があった。ちいさな手が高柳氏の手を掴んでいて、なんだかそんなことにも感動してしまった。もう、逢えるんだったら早く教えてよねぇ。心の準備もあるんだから。と、思ったけれど逢えただけでも感謝して、いつか、私の方の創刊間もない同人誌「器」にも、カットを頂けないものかと考えてしまう。舞い上がる。地面から足が離れたようになった私を見て、高柳氏は困惑してしまったようだった。私も、すっかり飛んでいて、住所も聞かずじまいだった。
それでも、はっと気を取り直したのは、カプリチオが「ニキ美術館」の館長、増田静江氏のインタビューを申し込んでいたからだった。私は勇気を奮って、ホームページの特集記事を作ることを話し、自分もインタビューの申し込みをした。「ニキ・ド・サン・ファール」は見たけれど、「ニキ美術館」はまだ見終えていないと思ったからだ。
撮影した写真の使用許可の簡単な手続きを、帰宅後「ニキ美術館」とFAX行い、こうして掲載の運びとなった。インターネットで発信することも、やはり簡単な申し込みによって可能となった。その間、非常にオープンで、フェアーな態度で接してくださった「ニキ美術館」の方々や、広報担当の方に感謝してもしたりないくらいだと思っている。そして、こういうオープンな、そしてフェアーで親切な態度を、増田静江氏がどこかで学んだとすれば、それはニキ・ド・サン・ファールにであったろうと思わずにはいられない。
こんなことを言うと笑われるからあまり言いたくはないが、「求めよ、さらば開かれん」といっても、現実にはあまり開かれんのよ。そこを、開けてよ開けてよとドンドン叩いていると、うるさい女だとか、女の癖にとか、生意気だとか言われちまう。それに、こっちもルール違反なの、たいていは。悪気はないけど、ルールを守っていられないの。そもそも規定外の存在なんだから。見方によれば、求める資格も権利もないところにいるのかも知れない。そんなわけで、思いもかけず開けて貰ったりすると、かえって、びっくりしちゃったりする。そして、その度に思う。自分もそうしたい。親切にしたい。オープンでありたい。フェアーでありたい。多分、ニキ・ド・サン・ファールに出会ってから、増田静江氏は変わったんだと思う。ニキ・ド・サン・ファールの作品に出会って、次に人間ニキ・ド・サン・ファールにもう一度出会って。
「ニキ美術館」はいろんなものを発信していると思う。もちろん、ニキ・ド・サン・ファールの作品。それから、元気になれる諸々のこと。そして、オープンマインド。オープンマインド光線を全身に浴びたので、増殖させて私も全身で放射したい。
あっ、それって、私もナナ? じゃあ、黄色いナナって、私? ならば、「ニキ美術館」はナナ製造マシーンと化して、那須の地でオープンマインド光線を放射し続けているということか。
また、同様にオープンな態度を常に絶やさず、さらに新しい刺激と適切なアドバイスを与えてくれる同人カプリチオに巡り会えたことを喜びたい。
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